●政治の世界に仲間がいなかった近衛文麿
片山 近衛文麿という人は、日本人の中にある、文明開化をしてもいつまでも満たされない西洋コンプレックスのようなものや、国際社会の中で日本は日清戦争にも日露戦争にも勝ち、第1次世界大戦の戦勝国になり、国際連盟の常任理事国になり、国際的な主張がもっとできる国のはずなのに、いつまでたっても世界の中で半端な地位にあるというストレスを引き受ける最後の希望の星として人気を得るようなパフォーマンスを取り続け、結局、最後の希望の星になった。しかし、「中国などをまずやっつけて、アメリカやイギリスだって日本の力があればなんとかなるのではないか」といった人民、民衆の情念に支えられる政治家でしかなかったのが、近衛文麿さんだということです。
近衛文麿さんは、貴族院を基盤にした政治家です。石原慎太郎さんは自民党を基盤にした政治家で、自民党の中で非常に人気者だったけれども、100人、200人の派閥を持っていたわけではなかったのと同じで、近衛文麿さんは公爵家で、貴族院の中の選挙で議員に選ばれるのではなく世襲です。華族のトップだから、近衛家の当主は選挙もなく自動的に貴族院議員になる。貴族院の中で会派に属したり、会派を作ったりしたこともあるけれど、近衛文麿さんはもともと学生時代から殿上人のトップのような立場なので、親友もあまりおらず、身近に仲間がたくさんできるというわけでもない。距離を置かれて、「ああ、近衛様だ」という感じになる。
要するに、衆議院で原敬のように、頑張って政党の中で「誰が信用できるか」などとばかり考えて、50人、100人仲間を作っては裏切られ、「この野郎」のように大騒ぎする、といったものとは全く違うわけです。
ところが、貴族院の近衛文麿さんしか期待できないほどの状態に陥りました。大正デモクラシーで、普通選挙法になり、政党政治の時代だといって二大政党になっていく。これからは政友会と民政党の時代だと思ったら、世界大恐慌に陥った。人気取りのために、一種のポピュリズムで政友会も民政党も調子の良いことを言うのだけれど、世界大恐慌や中国情勢は悪化していく。いくら政党が「これでうまくいきます」と言ってもうまくいかず、結局は国民を裏切るばかりで、「財閥と結託して甘い汁を吸っては国民を騙しているだけではないか」と思われる政党になってしまった。
だから血盟団事件や五・一五事件、その前の浜口雄幸狙撃事件があっても、「政党政治家にテロを行うとはけしからん」という話にはならず、皆「政党はもうダメだ」「衆議院の政党はダメだ」となり、それで軍人の出番だという話になる。
ですが、軍部独裁政治のようなものは明治憲法体制においてもあり得ません。やはり、自ずと軍も掌握しながら、衆議院ではないものがほしい。でも、すでに明治の元勲もいない。ではどこに誰がいるのだといったら、最後に残ったのは近衛文麿さんで、彼くらいしかいなかった。
そうすると、近衛文麿さんは国民的に人気があるカッコいい貴族政治家で、最後に残った希望の星だということで、どんどん人気が出る。人気が出るのだけど、石原慎太郎さんと同じく、政界の中に近衛文麿さんを支える持続的な大勢力がないのです。
民政党や政友会は腐っても民政党や政友会で、明治時代以来の長い政党の歴史の中で切磋琢磨して、各地方に支持基盤があり、衆議院にも議員がたくさんいた。国民から信頼されなくなっても一応、政党政治があるわけですが、近衛文麿さんは大衆の人気だけでもともと何もありません。
●日中戦争を途中でやめられなかったワケ
片山 大衆の人気に押し出された近衛文麿さんが政権を取った時、日中戦争に向かっていく時期とちょうど重なりました。その時に近衛文麿さんは政治力を発揮して、蒋介石と和平を結ぶような工作をもちろんしようとしました。けれども、官僚を掌握する、いろいろな衆議院の政治家を掌握する、軍を掌握するための自分の基盤が不十分だから、うまくいかない。そのうちに軍はどんどん作戦を進めてしまって、南京を陥落させてしまいます。
大衆の人気に支えられている近衛文麿さんとしては、「南京も陥落しないような状況の中で戦争を続けても大変だから、日本が少し勝ち戦で調子のいい間に妥協的な案を出して、蒋介石と和平をしましょう」ということで軍や国民を納得させられるかと思った。すると南京を陥落してしまったので、近衛文麿の人気を支えてくれている民衆は、「もう蒋介石は終わった」と思ってしまった。その終わった蒋介石の政権と和平交渉を本格的に行うことは、ポピュリズム的な人気に支えられている近衛文麿さんにはできなかったのです。
ではあのとき、他の政治家なら和平ができたかといえば、超然内閣のような国民とかけ離れている政治家では...