●「外出禁止令がないと治安が守れない」
―― もう1つ、1968年から70年の段階で、石原慎太郎さんがすでに都知事を視野に入れていたことについてお聞きします。石原慎太郎さん自身は1975年に一度、都知事に立候補して、その時は落選しました。その後、1999年に再度立候補して、この時は当選して都知事になるという流れになっていきます。68年の段階で石原慎太郎さんが都知事を視野に入れていたことについて、片山先生が注目されるのはどういった点ですか。
片山 『慎太郎の政治調書』の話に戻りますが、1年生議員の段階での石原慎太郎さんが「すでにこのようなことを言っているのか」と感じたのは、あるコラムの1回で力説されていた「外出禁止令がないと日本の治安は保てないことがある」ということです。
―― 当時はいわゆる学生運動、学園闘争が、1968年、69年頃に盛り上がってきて、街中でのデモなどが盛んにあった時期ですね。
片山 「外出禁止令」というと、現在では多くの方は疫病のことを想像なさると思います。ですが当時は、今言っていただいたように学生闘争が大変盛んで、デモなどがあると普通の車は通れなかったり、シャッターを下ろして打ちこわしの恐怖に耐えたり、実際にお店が壊されたり車が燃やされたりといったことが起きていました。また、街頭占拠があった。バリケードで路上を占拠するなどして解放区をつくるという発想です。そうやって都市が騒乱状況に置かれることが年に何日かあったし、大学の近くであれば占拠が長引くなど、いろいろなことがありました。
私も幼稚園の頃などに「今日は新宿に行ってはダメだよ。デモがあるから」「今日は家族で食事に行くのに新宿は行けないから」などと言われ、「えっ、そうなの?」といった日がありました。確かにテレビのニュースを見ると、百貨店も臨時休業だといって昼間からシャッターを下ろして学生の乱入に備えているといった具合です。最近でもパリなどさまざまな場所で似たような風景はあり、東京では長らくそこまで行くものはありませんが、そういったことが日常茶飯事とはいわないまでも、年に何度もありました。
そういった中で、例えば三島由紀夫さんはついに、それによって革命的な騒乱、体制転覆があり得るのではないかと考えた。それに対して自衛隊が治安出動することによって、左翼的な価値観からいえば一種の「反革命」を起こして、自民党の佐藤栄作首班独裁臨時政権を立て、憲法改正し、自衛隊を国軍にまで持っていくことを構想したのは、まさにこの時代です。
想像力をめぐらせれば、そこまで行く日が来るのではないか、1、2年という間もないうちに来るのではないか、ということを多くの人が心配した。それを利用して、左翼も右翼も、一気に体制変革が可能ではないかと考えて、都市騒乱が常態化しました。
年配の方で同時代的に覚えておられる方はいうまでもないと思いますが、若い方でも、新宿駅が占拠される、火焔瓶を投げられて線路が燃えているという昔のニュースやニュースフィルムをご覧になった方もいると思います。まさにそういう時代ですね。
●「現実を見よ」、都市騒乱の中、外出禁止令が出せない日本への提言
片山 そういった中、「日本は戦後民主主義国で、人民の自由や人権が大事だから、そういった騒乱状況、混乱状況(昔でいえば戒厳令が敷かれるような状況)に直面しても、個人の自由な権利(私の権利)を最大限尊重すべきである。そのため、外出禁止令のような、買い物にも行けない、遊びにも行けない、行きたいところに行けない、何時間も外に出てはいけないなどというものは、戦後の日本の憲法に基づく法治体制の中では絶対あり得ない。だから外出禁止令は日本ではできないのだ」と言われました。果たしてこれは、現実の日本の社会の中で合っているのか。
そこで石原慎太郎さんは、「戦後民主主義国の日本国民としては皆がその理屈を言うのだが、現実を見よ」と言います。都市騒乱で一般の人が一番困っているのは東京である。東京においては、御茶の水や新宿などいろいろなところで頻繁にデモがあって、半日あるいは1日、翌日の朝まで交通機関が麻痺したりする。事実上、そういった場所にある店舗は営業ができない。場合によっては、きちんと防備していたつもりでも損害を受けてしまう。火事になるかもしれない。打ちこわしに遭うかもしれない。
私も大きなデモがあった1969年のある日、東京都心のホテルに泊まっていました。4階か5階の部屋でしたが、火炎瓶が部屋まで届くか届かないかということで、「何かあったら大丈夫ですか!?」などと言って、私の親とホテルのフロントが大論争になった。それがその時だったのです。ところが、それに対するプロテクトは「機動隊が制御します」というものでした。
ですが、一般市民に対...