●観念を重視する三島由紀夫、現実を重視する石原慎太郎
片山 三島由紀夫さんの文学は、「失われたものだけど、あれが大切だった」ということを描く。失われたものを取り戻せない人間がいかに無意味で、孤独で、つらく、悩んで、虚脱して生きるか。『仮面の告白』もそうです。何か真の実感を得られないで苦しんでいる。
もちろん石原慎太郎さんの「太陽族」も、本当の生きがいを見いだせなくて困っている人たちですが、乱暴な行動に走って解消することになる。これがもっと通俗化すれば、石原慎太郎さんのすぐ後に登場する大藪春彦さんの世界がまさにそれで、ハードボイルドです。『野獣死すべし』のように。
石原慎太郎さんも実はハードボイルド小説を書くのが得意でしたが、ハードボイルドに行ってしまう人と、それに行けないインテリの苦悩といったものがありました。そこに行くためには失われた観念を取り戻さなくてはいけない、と。
それが三島由紀夫さんの場合は、日本国民の99パーセントが否定しても「自衛隊を国軍にして、死なせ得る価値というものを国家に回復させるのだ。それなくして何の生きる意味があるのだ」と誰もついてこないようなことを言う。そして、ついてくる若者だけを集めて楯の会を作る。自衛隊の中にもついてくる人がいると思って、とりあえず呼びかけてみたけれど、ついてこないのなら切腹をする。こういった華々しい、美的な死に方によって、後世に何かしらのメッセージを残す。
小説もとりあえず全て書いてしまったから、自分の観念・美学の中で行うべきことは全て行った。『平家物語』での平知盛の美学のような「見るべきものは全て見たので、あとは死に、後世をただあの世から笑って見るのみ」といった感じだったと思います。
それに対して石原慎太郎さんは、同じ保守的で、三島由紀夫さんの後輩のように思っている人もいるかもしれませんが、今言ったような三島美学とはまったく関係がありません。常に大衆(特に生命力の強い若者)の中にあるイライラや怒りを、『太陽の季節』のような小説によって最大化して、ぶつける。そうすると、先鋭な人たちが共感する。
その共感の人気に乗る形でタレント化しながら、また小説を書く。これを繰り返しながら、いわゆるマルチタレントとして、映画監督も俳優もする、弟を映画の大スターにする、弟の映画のための原作やシナリオを提供する、自分もいつもカッコいい写真をたくさん雑誌などでばらまく、テレビにも出る、若者が喜ぶようなエッセイを書く――。
こういったことを繰り返して、大衆の中にあるわだかまりのようなものを、特に自分の同世代に訴える。それによって、常に上の世代が偉そうに、とりあえず取り繕おうとしている価値や、青臭い観念主義者が左翼革命で解決すると思っているようなもの、ありとあらゆる観念主義者や保守的で大人しく怯えて生きている人たちを、せせら笑い、馬鹿にする。そうすると、それをカッコいいと思う人がついてくる。これによって常に渦巻を作りながら、あくまでも大衆の中にあって満たされていない部分に焦点を絞っている。
三島由紀夫さんは、対象が満たされているかどうかは何も関係ありません。三島由紀夫さんが満たされていないものにしか興味がないからです。「自分の満たされていないところは、戦後において日本の国家像が失われているところなのだ」と。そうしてセクト化して、精鋭化して、少数の強い支持を固めるということばかりに興味が行く。そして華々しく、前衛的な、革命的なことを、暴力を使って行う。これが三島由紀夫さんの思想になっている。
●身体を鍛えることで「価値紊乱者」を維持した石原慎太郎
片山 石原慎太郎は常に民主主義的な仕掛けを使っての人気です。大衆動員、マスコミ、選挙を使う。でもその中で、物分かりのいいことを言うのではなく、価値を紊乱していく。「やろうではありませんか」「今、あなたは満足していますか」「日本のいろいろな韓国との問題、中国との問題、これは何なのですか」「アメリカにいつまでお辞儀をしていなくてはいけないのですか」「ノーと言いましょうよ」「尖閣諸島は日本のものではないですか」「もっと日本は強い国だったのだ」と。
「日本は強い国だった」と言うところは三島由紀夫さんと似ているように見えますが、三島由紀夫さんは滅びの美学が入っています。だから極端なことをいうと、日本が美学的に完結していれば、実際、滅びてしまってもいいのです。石原慎太郎さんは、生命が爆発するためには日本が滅びては困るのです。
そして若者が常に生命を爆発するのだとすれば、石原慎太郎さんも『太陽の季節』の頃は20代、参議院選挙に当選したばかりの頃もまだ30代なのでそうした考えでいいかもしれません。ですが40代、50代、60代になっていっ...