●「価値紊乱」という言葉を好んで使った芥川賞作家・石原慎太郎
―― 石原慎太郎さんの政治スタイルや政治哲学は、どのようなところから生まれて、どういった論理だったのかをお聞きしたいと思います。
もともと片山先生が注目されたのは「価値紊乱者=価値を乱す者」としての石原慎太郎で、そもそも登場のときがそうだったということです。皆さんがご存じのように、『太陽の季節』という小説で華々しくデビューし、一躍スターになっていく。この時代の価値紊乱者とは、どのような意味合いがあったのでしょうか。
片山 『太陽の季節』で芥川賞を取り、石原慎太郎さんの作家としてのスタンスを求められるとき、つまり評論的、エッセイ的なスタイルで原稿を求められたときに、「価値紊乱」という言葉を石原慎太郎さんは好んで使いました。「価値紊乱から価値を創造することが大事だ」というものです。単にぶち壊す、あるいは「今、皆がとりあえず保っているものを乱していくという価値紊乱だけを行って、後のことは知らないよ」ではなく、価値紊乱をし続けることによってわれわれの世代(戦後派)の、新しい時代に見合った価値観が生まれるのだというのです。
とりあえずは、皆が信じている価値だったり、実は信じていないけれども取り繕ったりしているものを、壊せるだけ壊してしまう。極端な言い方をすれば、戦前の井上日召などといった人たちの、「とにかく破壊だ。まずぶち壊すことによって覚醒すると、次が出てくるのだ」というロジックです。およそどこの国でも比較的、社会が乱れているときは、そういったことを言う人が現れます。
●理論や観念よりも、生活の実感を重視
片山 でも石原慎太郎さんの場合はそれとは違います。「もはや戦後ではない」という声が出てくるように、日本はアメリカに占領されていた時代から独立を回復し、曲がりなりにもこれから一流の国家として(蘇るのかどうかはまだ分からないけれども)、朝鮮戦争後の経済の回復も徐々に数字に表れてきた段階です。そういった中で、日本の国際的な地位を、ソビエトに対してもアメリカに対しても、政治手法はいろいろと違い自民党の中での対立を生んではいきますが、とにかく世界に対して主張していこうとする。
しかし、これからまともになっていくかもしれないという中で、古いジェネレーションである戦前戦中に顔役であった人たちが生き残っている。吉田茂や鳩山一郎、岸信介、あるいは石橋湛山といった人たち――リベラルな人もいれば、よりそうでない人もいるような陣立てですが――は皆、オールドジェネレーションです。
敗戦やアメリカの支配といったものを経験した段階から自分たちの人生が始まっている新しい世代は、これだけの戦争に負けるなどいろいろな事態を経て、日本は強力に新しい価値で生まれ変わっていくべきなのに、オールドジェネレーションはなあなあで取り繕っているように見える。一方、社会主義、共産主義は、自分たちの自由などといったものをどれだけ実現してくれるかというと、クエスチョンマークがつく。
つまりイデオロギーというものが肉体的な実感、生命的な実感、これは前回の東京都の生活者の論理とも通じるけれども、結局観念で縛っているものには左翼だろうが、右翼だろうが、石原慎太郎さんは不信感を持っているわけですね。
結局、小説家になったことに示されているように、石原慎太郎さんは理論を説きたいのではなく、その日その日の生活の実感の中で何をやりたいのかといった生々しい実感を表現し続けることが人間だと言います。そうすると、自由主義には惹かれるけれども、そのために観念で武装して、「人間とはこのようなものだから自由が大事なのです」と道徳の教師のように説くこととは、同じ保守寄りだとしてもスタンスが異なるのです。
もちろん石原慎太郎さんは、最初に「価値紊乱」と言っているときは、保守的な人とは思われていませんでした。破壊的な人だけれども、より左翼に通じるのか、より右翼に通じるのか、ただ世代的な「太陽族」的な風俗に通じるのかは、ファンの人もよく分かっていない時代で、本人も分かっていなかったと思います。
―― まだ大学生ですよね、『太陽の季節』を書かれたのは。
片山 そうです。もちろん文学は好きだったけれど、一橋大学でサッカーに打ち込んでいたような人が、小説を書いて登場した。とてつもない素人がいきなり小説家になり、「素人の文章なのに芥川賞をあげるのはいかがなものか」と芥川賞の審査会でも多くの反対があった。20歳そこそこの青年だったわけですからね。
だから石原慎太郎さんは、そういった若者の実感、理屈よりも生き物としての、動物としての(というと語弊があるかもしれませんが)生命の爆発のようなものを保障してくれる社会が欲しかった。そ...