●保守主義の一般的な定義とは
―― まさに保守の姿として、2人を並べて論じることも多いと思います。今、天皇の話もありましたが、例えば『尚武のこころ 三島由紀夫さん対談集』の、ある方との対談の中で三島由紀夫さん自身が言っているのは、「日本に限らず国というものは、理念的(合理的)な部分と、非合理的な部分がある。前者が統治国家だとすると、後者は祭祀(お祀り)国家があるべきだ。祭祀国家とは、天皇というものがあり、これがなくしてみなが集まる、命を懸けられるものはない。だから三種の神器なのだ」という話をしたところ、一緒にいた石原慎太郎さんと小田実さんが「三島さん、三種の神器だって」と2人で笑った。その対談者が「(思想の異なる)2人が笑うのですね」と言ったら、(三島由紀夫さんが)「石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな」と言った、という話をしています。
また、石原さんが都知事だった時代に副知事を務められた猪瀬直樹さんがSNSに書かれていることですが、ある都の行事で君が代を歌う機会があった。当然、猪瀬さんは石原さんの隣に立って歌うのですが、本人に確認していないけれども石原さんは「きみがよは」のところを「わがひのもとは」と歌っているようであった、と。
天皇観なり国家観を含めて、「本来、保守であればこういうものだ」というイメージもあると思います。まさに価値紊乱者、そして大衆動員者としての石原慎太郎さんと、美学的な三島由紀夫さんという違いもあるでしょうが、そもそも日本において保守とはどういうものでしょうか。
片山 保守とは、エドモンド・バークの定義に従えば、今あるもので保っているのなら、それはなるべく尊重し、残していくことを前提にしながら、どうしても変えなくてはいけないところは変えるにしても、今あるものが全ておかしいということが確信できないかぎり(という留保をつけてもいいかもしれないけれども)、基本的にはきちんと残せるものは残す。交代させて今まで経験知がないものでうまく行くと考えるのは抽象的な観念主義で、実際はうまくいかないかもしれない。今、いろいろと問題はあるけれども、それなりにうまくいっているものは現に経験知でうまくいくことが証明されているわけだから、それなりにうまくいっているものはなるべく残す。どうしても今あるもので全てうまくいかないならば全交換が必要かもしれないけれども、そういうことでないのならば、残せるだけ残しながら、慎重に先のことを考えていきましょう、といったように石橋を叩いて渡るのが、いわゆる保守主義の一般的な定義だと思います。
●石原慎太郎の天皇観
片山 それを日本に応用した場合、天皇という一応の政治制度があるとか、政教分離だといっても、やはり宗教的なものであるわけですが、そういうものがあるほうが日本の国民がまとまる、国民国家として日本人がまとまれるということであれば、天皇という仕掛けはあったほうがいいのだ、ということで、それはまさに「天皇機関説」ともいえるものです。要するに、仕掛けとして「天皇が存在したほうが日本の国がうまくいく」ということが少しでも言える限りはあったほうがいい、というのが石原慎太郎さんの考えだと思うのです。
これは保守だと皆さんは思うかもしれないけれど、おそらく天皇そのものに永遠の価値があるとは思ってはいないわけです。まさに猪瀬直樹さんが、「本当にそう言っていたかどうかは分からないけど」と留保を付けて書かれていますが、そういった話が石原慎太郎さんにたくさんあることは事実です。「天皇には戦争責任があると思う」「絶対に天皇がいる日本でなければいけないというものの考え方ではない」といったことは、番記者の人や側近の人にはいろいろと言っている。これは、どこまで本当か嘘か、作り話か誤解なのかは分かりませんが、石原慎太郎さんは本音トークではいつもそういうことを言っていた。これが、私どもが知っている石原慎太郎さんの実際の像だったのだと思います。
つまりリアリストなのです。また人気を取るためにどういう言い方をすればいいのかということ、リアルな政治の状況や必要な仕組みについて、常に機能的に、機関説的に考えている。天皇がいたほうが日本はうまくまとまって日本人として盛り上がれる、オリンピックの開会式や閉会式に天皇陛下がお出ましになってお言葉を言うと「日本人でよかった」「日の丸を見てよかった」といった情念が大衆にあるかぎり、石原慎太郎さんは天皇制を支持する、と。
●三島由紀夫の天皇観
片山 三島由紀夫さんの場合、自分が生きていくための絶対の価値としての天皇なのです。仮に1億人の日本人のうちの9999万9999人、三島由紀夫さん以外が「もう天皇など...