●「この旅人あはれ」の後日談
(聖徳太子の歌には)後日談もあります。どういうものかというと、『日本書紀』に次のように書いてあります。
「数日之後(ひをへて)、皇太子、近習の者(ひと)を召して、謂(かた)りて曰はく」
片岡山で会った「飢えたる人」が死んでしまってお墓に葬られる。その後、数日を経て皇太子は「近習の者」、つまり周りにいた人々を集めて語って言った。
「先日(さきのひ)に、道に臥(こや)せし飢者、それ凡人(ただひと)に非(あら)じ」
「前に倒れていた人は、どうも普通の人ではない」。これは凡人ではない、と太子は言うのです。次に「必ず真人ならむ」と出てきます。「真人」というのは、道教で奥義を究めて神仙になった人のことですから、「これは大変な人だ。神に準ずる人かもしれないぞ」というわけです。
「必ず真人ならむとのたまひ、使を遣して視せしめたまふ」
(使いに)見に行かせたら、遺体がなかったというわけです。ちょっと難しい言葉で「尸解仙(しかいせん)」と言いますが、聖人は遺体がなくなるという伝説が、東アジアには広く流布していました。だから、死体がなくなった。ああ、あれは神様だったのか、ということになったわけです。
しかも衣服がたたまれて、棺の上に置かれていた。太子はまた使いを出し、その衣を持ちかえらせて、いつものようにまた着た。そして、「ああ、あれは神様だったのだ」というわけです。
●「聖の聖を知ること」とは
その後、『日本書紀』の記述には、「時人、大(おほ)きに異(あや)しびて曰(いは)く」とあります。時の人たちは大いに聖徳太子の偉大さに気づき、それをあやしくさえ思って、こう言います。
「聖の聖を知ること、それ実(まこと)なるかも」
聖というものは聖にしか分からない、聖だけが聖というものが分かるというのは、本当だったなあといって、「逾惶」(いよいよかしこまる)のですから、聖徳太子に対する尊敬の念がますますいや増した、といっているわけです。
本当の人の偉さというものは、その人と同じぐらい偉くないと、その偉さというのは分からないと私は思います。
これは余談ですが、勝海舟に幕末のことを問いただした人がいた。「もっと将軍のために頑張って戦争をして、その上で自決すればよかったのに、なぜ頑張らなかったのだ」というふうに訊いたわけです。勝海舟の答えは、「頑張ろうと思えば頑張れたけれども、その分戦費がかさんで、フランスに対する借金が増えるだけだった。だから、さっとやめたほうが安上がりだったのだ」というものでした。
これは確かに大きいと思います。自分が戦争を展開しなかったことで、国の借金が減ったということを言っているわけです。そういう人間の大きさというものは、やはりなかなか分からないものだと思うのです。
●諸宗教と日本における「弱き者の立場に立つ」思想
聖書の中ではどういうふうに出てくるかというと、「弱きもの、小さきものに対する奉仕は、神に対する奉仕と同じ」というようにキリスト教では言っています。
「私のような者が天国に行けるでしょうか」
「十分に行けますよ」
「私は信仰も何もしておりません」
「いや、あなたは食べ物がない人に食べ物をあげていた。着る物がない人に着る物をあげていた。それは私に対する奉仕とまったく同じなのです」
そういって天国へ行く話が聖書の中に出てきますが、それと同じことです。弱き者の立場に立つ、というのがあるわけです。
実をいうと、「弱き者の立場に立つ」というのは儒教思想にも、仏教思想にも、キリスト教思想にもある。イスラム教思想もそうです。イスラム教の思想は相互扶助です。ネットワークをつくって、みんなで分かち合う思想です。だから極めて社会主義的なところもあるのです。
そのように、諸宗教において「弱き者の立場に立つ」という考え方がありますが、聖徳太子が示したこの理想は、日本における政治思想の第一ページを飾るものということにもなります。
簡単にいうと、日本の平安時代までの古代国家は、その理想で動いていた。平安時代までの政治家は、聖徳太子のような政治を行うことを目指していたからです。
確かに現在のヒューマニズムの観点から見ると、どうかと思うことはたくさんあるかもしれませんが、「自分たちは聖徳太子のような政治を行いたい」と思っていた。そのように、聖徳太子という存在は政治の理想だったのです。
●聖徳太子にならった孝謙天皇の詔勅
日本には「六国史」といって六つの歴史書がありますが、それが分かるのは『日本書紀』の次の『続日本紀』という本です。
『続日本紀』...