●仏教も偉人伝も語りによって伝えられた
こういう話がお好きな人で、例えば初期仏教や原始仏教というものに関心を持っておられたら、お釈迦さまが亡くなった後の話をご存じでしょう。
お釈迦さまが亡くなった100年後、弟子たち(弟子の弟子ぐらいかもしれません)が集まって、お釈迦さまの言葉がどのように伝わっているかを口頭で言い合う。それが仏典にまとめられて、『スッタニパータ』や『ダンマパタ』といわれるものになります。
それと同じように、語りによって物事は伝えられていく。「語り伝えていく」ということを、実は私は大切なことだと思います。書き付けが残っているからいいというものではないと思うのです。どういうことかというと、語ることによって、その人は人間の心の中によみがえります。語られたその人は、生きているのです。
例えば、自分は今、松下幸之助さんの力によって電気店を営んでゆくことができる。その人の考え方が支えになっているということであれば、「松下幸之助さんというのは、こういう人でね」と、その人が語っていくことに意味があるわけです。
●語りの中で人はよみがえっていく
例えば、おじいさんやおばあさんが亡くなって、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌を行います。そのたびに「亡くなったおじいちゃんは、こういう人だったね」「おばあちゃんは、こういう人だったね」と語っていくことが大切なのです。
そう言うと、お坊さんは「いやいや、お経が大切だ」というかもしれませんが、私に言わせれば、お経はみんなが集まるためのものです。お花を飾るといっても、お花は人に向けて飾られているのであって、仏様のほうに向けて飾ってはいない。お供え物をするといっても、お供えした後はみんなで食べます。食べて、みんなでおじいさんやおばあさんのことを語っているうち、心の中によみがえってくるのです。
現在でも、私が「家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥せる この旅人あはれ」といったら、「おお、聖徳太子という人はそういうふうに語ったのか。そういうふうに語りかけたのか」と、その話がよみがえってくるでしょう。
そういう語りの中で人間はよみがえっていくものだと私は考えています。死んだ自分の先生、死んだ父親や母親、死んだおじいちゃんやおばあちゃんのことを私が語っていくのは、最大の供養だと私は思っています。
●『日本書紀』で伝えられた聖徳太子のエピソード
聖徳太子はまさしくこういうふうに語ったわけですが、『日本書紀』にも同じような伝えがあります。『日本書紀』の推古天皇21年。西暦に直すと西暦613年の12月のところですが、このように出てきます。
「十二月の庚午(かうご)の朔に、皇太子、片岡に遊行(い)でます。時に飢者(うゑたるひと)、道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。仍(よ)りてよりて姓名(うじな)を問ひたまふ。而(しか)るを言(まを)さず。皇太子、視(みそなは)して飲食(おしもの)を与へたまふ。即ち衣裳(みけし)を脱(ぬ)きて、飢者(うゑたるひと)に覆(おほ)ひて言(のたま)はく、「安らかに臥(ふ)せれ」とのたまふ。則(すなは)ち歌(うたよみ)して曰はく、」
「しなてる 片岡山に
飯(いひ)に飢(ゑ)て
臥(こや)せる
その旅人(たひと)あはれ」
「親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや
さす竹の 君はや無き
飯(いひ)に飢(ゑ)て
臥(こや)せる
その旅人(たひと)あはれ」
訳文にすると、「片岡山に飯に飢えて倒れている。その旅人よ、いたわしや。親もなくお前は生まれてきたわけではない。仕えるべき主君もいないのか。飯に飢えて倒れている。その旅人よ、いたわしや。その旅人よ、いたわしや」というような哀れみの言葉をかけているわけです。
●名前を訊き、食事、衣服、歌を与えるという順番
具体的に「しなてる 片岡山に」と地名が出てきたり、「親がなくて、お前は生まれてきたわけではないだろう(親がいるだろう)」というふうに、みんなが心配しているだろうというようなことを言って、「仕えている主君もいないのか。今、あえいでいるのだね」というような言い方になっているわけです。
これは、弱者に対する一つの見方ということになります。貧しい人がいることを私は知っている。その貧しい人、苦しんでいる人たちに対して、私はまず生命を維持するために食事を与えようではないか。寒いのならば、私が着ているものを与えようではないか。
さらに人間というのは、衣食の足りたその後も大切です。言葉がなければ、どんなすばらしい衣食が与えられよう...