『源氏物語』で描かれる恋愛の中心は「不倫の恋」である。インモラル(不道徳)ともいわれるその物語に、「もののあはれ」という倫理の基礎を見いだした本居宣長。そこには、切実な「あはれ」を歌や物語といった芸術的にものに描写することと実際に行動に移すことは違う、つまりそれを行為として実践してしまったら処罰されて仕方がない、という宣長の分別があった。そこで今回は、『古今集』に始まる天皇公認の和歌集の中で詠われてきた歌の世界で「不倫の恋」がどう扱われてきたのか、中国の『詩経』の話も交えながら、「もののあはれ」という視点から解説する。(全4話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
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●「あはれ」を歌にすることはよしとした本居宣長の道徳観
―― これ(本居宣長の「もののあはれ」論、道徳についての考え)も、どういうことかということを少し現代的な例など取りながら考えていきたいと思います。
例えば今、日本ですと、特に芸能人の不倫が起きたときにSNSなどでも、メディアもそうですけれども、大変なバッシングが起きてくるということがあります。そのような不倫バッシング的なものがあったときに、宣長的な「もののあはれ」だと、どうこれを捉えるのかというところです。先生はそこをどのようにお考えですか。
板東 これはすごく宣長の議論の難しいところで、宣長は、要するに不倫物語である『源氏物語』を一生愛しましたし、肯定しましたので、不倫を芸術的に描写することは良い。かつ不倫に走ってしまうほどの当事者たちの思い自体は肯定します。それを持つなとは言いません。人間だからそういう思いが生じるのは自然だけれども、それを本当にやっていいかどうかは別のことであるという、ちょっと不思議で、実践的な次元ではそういうことをしてはいけないという、ごく普通の道徳を宣長は持っているわけです。
そうしてしまいかねないほど、人間がそういう情念を持つことは肯定する。かつ、それを本当にやらずに、歌や文学という形で表現することも肯定する。それで宣長が言うのは、そうやって歌とか、物語という形で表現してしまうとなぐさまるというか、本当にやらずに済むということです。
宣長が挙げるのは僧侶の恋の例です。歌などで、男性が多いけれども、恋自体を禁止されている僧侶が異性に恋をしてしまう。『古今集』に始まる公式の天皇公認の和歌集の中にはたくさん僧侶の恋を詠った日本の勅撰集があります。絶対に許されない「不倫の恋」というわけです。
だけれども、それを歌として詠うことは許されているし、ということはそういう思いを持つことも許されている。だから、もちろん僧侶がそれで女性に手を出すことがいけないのは社会規範として当たり前なのだけれども、そういう思いを持ってそれを詠ってしまうことまでは許すというのが日本の道であるということです。
本当に他者の切実な「あはれ」が思いとしてあって、それをため息として、歌として漏らすところまでは許す...