●道徳が語られない日本にも道徳はあった
―― ではそのような、まさに「もののあはれ」的なものをベースにした道徳観といいますか、倫理観というのが当然、例えば中国であったり、あるいは西洋であったりの道徳観と違うということで、いろいろな議論が出てくるということなのですけれども、まず最初に先生にご紹介いただきましたのが、本居宣長の『直毘霊』というところです。これはどういうご本になるのでしょうか。
板東 これは宣長の主著の『古事記伝』という『古事記』の注釈書のいちばん最初に付いている国学のマニフェストといいますか、国学の思想を簡単に紹介した、すごく有名な、これ自体も1冊の本として出版されたものです。すごく短いけれども大事な本であって、かつ、これは今からお話ししますが、太宰春台という、宣長より少し世代が前の有名な儒者が、まさに日本の道徳を徹底的に批判した『弁道書』という本があるのですが、それに対する反論として書かれたものです。
―― なるほど。これを読ませていただきますと、「実は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり」「古の大御代には、道といふ言挙げもさらになかりき、其はたゞ物にゆく道こそ有けれ、物のことわりあるべきすべ、万の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国のさだなり」というところでございますね。
板東 ありがとうございます。これがまさに春台への批判です。つまり、日本の古代においては「道」、道徳は存在したということです。けれども「道てふ言」、つまり道徳について言挙げをして議論をすることはなかった。だから「道てふことなけれど」、道を語ることはなかったけれども、道徳そのものは存在したのだということです。
これは当然、中国と逆だというわけです。中国の場合はたしかに、道徳の議論というのは(『論語』に代表される)儒教以来ずっとあるわけですが、日本は明らかに中国ほど道徳の議論をしていません。
だから春台は、日本には道徳はなくて、それは全て中国から教えてもらった輸入物だと語ったわけですが、宣長はそうではなくて、道徳についての議論はなかったけれども、道徳はあったのだと考えました。それは「あはれに基づくような...