●茶の歴史~薬用から文化的なものへ
今回は『茶の本』の第2章の「茶の歴史」、それから第3章の「茶の哲学」についてお話をしたいと思います。
茶は古代中国で、最初は薬として用いられていました。それがだんだんと文化が進むにつれて、茶というものがいわば精神衛生面で効果があるということから、文化的なものに変わっていったわけです。これがいわゆる茶道の出発点といっていいかと思います。特に8世紀に陸羽という人が書いた『茶経』という非常に有名な本があります。少しだけ読んでみると、このように書いてあります。
「一杯目は唇と喉をうるおし、二杯目は孤独感を忘れさせてくれる。三杯目を口にすると、枯渇していた詩心をかきたてられるが、五千巻ほどのおかしな軸が並ぶことになるばかり。四杯目でうっすらと汗をかき、日ごろの煩わしい思いが毛穴から抜け出ていく。五杯目には心身が浄化され、六杯目となるとついには不老不死の境地に至る」
このように、日常の場にありながら日常世界を抜け出して、仙人の境地になる。これは後でお話しする老荘思想などと非常に関係して、こうした茶の精神的な意味というものが、強調されるようになります。
●禅宗の考え方を出発点に発展した日本の茶道
しかしながら、こうして発展してきた中国における茶の文化が、やがて15世紀近くになると、社会の乱れ、世間が混沌としてきたことによって衰退していってしまいます。その代わりにそれを受け継ぐような形で、日本に茶の文化を取り入れて大成させたのが、禅宗のお坊さんたちです。
禅は仏教の一派ですが、室町時代に中国で勉強したお坊さんたちが日本に帰ってきました。それ以前の仏教に比べて禅宗の特徴は、単に仏道、仏教の修行というものはお経を勉強するだけではなく、日常生活そのものである、とするところにありました。寝て起きてご飯を食べて掃除をして、そういう日常生活そのものが修行なのだ。その中の一部としてお茶を飲むということが、日常生活の一番のポイントになる。それを仏に近づく修行の一つとして捉えるようになる。そういうことから、日本の茶道が出発しました。
それを代表していたのが、千利休です。利休はご存じのように太閤・豊臣秀吉に仕えながら、茶室の中においては一歩も譲らないという気構えで、そして後ほどご紹介しますが、さまざまな茶の文化を確立しました。こうして天心は、茶が古代中国から始まって室町期の日本で大きく発展させられたということを一通り紹介しています。
●茶の哲学のベースにある老荘思想
これが『茶の本』の第2章ですが、引き続き第3章ではいよいよ天心は、茶の哲学のベースになった古代中国の老子、荘子の思想について、紹介しています。古代中国にはさまざまな思想が現われたわけですが、非常に大局的な2つの思想を取り挙げています。1つは孔子によって始まった儒教の文化です。孔子の儒教の思想は一口でいうと、社会の上下関係を軸として、われわれの社会をいかに秩序あるものに構成させていくかという倫理を説いたものです。
それに対して、孔子とほぼ同時代に出てきた老子、荘子という2人の思想家は、そうした社会を超えた自然の世界、自然の摂理というもの、言い換えれば宇宙の摂理といっても良いものに重点を置きました。要するに、孔子が説いたような人間社会というものは、非常に小さいものにすぎず、それを超える自然、宇宙に重点を置いたのです。これはよく英語で「tao(タオ)」などといわれます。
なお、孔子、それから老子、荘子もいずれも「道」という言葉を使いますが、孔子の場合、儒教の道は道徳、あるいは人間社会のルールという意味です。ところが、老子や荘子が言うのは天道で、これがいわゆるタオですが、自然の宇宙の摂理、人間などをはるかに超えた宇宙の運行の摂理というものがあるのだということです。そういうことを老子は説き、孔子の言うように社会秩序も重要だが、それを超える宇宙の運行こそが重要だと考えました。
そして、茶というものは、われわれの日常生活の中の一番ちっぽけな部分だが、その小さなお茶の中に、実は大宇宙、すなわち人類をも超える宇宙の摂理というものがそこに実現されているのだということを老子や荘子は説いたのだと、天心は紹介しています。
●儒教、仏教、老荘思想を語る「お酢」のたとえ話
また第3章では、天心は中国の3つの思想である儒教、仏教、そして老荘思想をたとえを用いて紹介しています。
どういうたとえかというと、それぞれの宗教、思想を代表する3人の人物が一杯のお酢をなめたと言います。そして、なめた後で何と言ったかというと、仏教の僧侶は「苦い」と言った。これはつまり、仏教はお釈迦さまから始まって、この世は苦の世界なのだ。だからなんとかしてそこから離脱す...