●琴に「自分の物語を語らせた」名人の話
今回は、『茶の本』の第五章「芸術鑑賞」と第六章「花」という二つの章についてお話ししたいと思います。二つの章で天心が強調するのは「相手」。相手が人間である場合にせよ、自然である場合にせよ、相手に自分を預けて委ねることが非常に大切なのだと述べています。
最初に第五章の方で、芸術にどう対するべきか。とくに東洋の芸術と、その創作者の関係について、たとえ話で話しているものを紹介しましょう。
天心は中国の物語から、「琴ならし」を挙げています。大昔、ある森の中に非常に古い桐の大木があった。それを切り出し、琴の名器がつくり出されて、皇帝の元に運ばれた。皇帝は、それを見て「この琴を弾きこなすことのできる名人はいないか」と、国中にお触れをまいた。我こそはという琴の名人たちが集まってきて挑戦したが、うんともすんとも言わず、どうにも手がつけられない。そこへ、ある時伯牙(はくが)という一人の琴の名手がやってきた。彼が琴に触れるや否や、琴は朗々とうたい出し、伯牙が手を添える必要もなさそうなぐらいだった。
見事な演奏にすっかり感心した皇帝が、弾き手に秘訣を尋ねると、「自分はただ琴の物語を琴に語ってくれるように促しただけです。今までの名人たちは、自分たちの物語を語らせようとしたけれど、それには頑として抵抗した琴が、自身の物語を進んで語ってくれたのです」と言った。
天心はこの挿話を引いて、「これが東洋における芸術であり、運動(スポーツ)であり、全ての極意だ。西洋のように、人間が全てを取り仕切って、琴を弾きこなさなければならないとするのとは、正反対のやり方である」と言っています。
●「余白の美」は東洋の芸術の特徴
この挿話から天心は、東洋のあらゆる芸術に通じることだと言います。例えば、絵画では、東洋絵画に特徴的なポイントの一つに「余白」があります。墨絵などで、画面の一部分にはあえて墨を入れず、元のままに残しておく技法で、おのずと観る者の感情が同化・流入することを促す。「余白の美」では、語らないことによって、あえて推し量らせる。そういうものが東洋の芸術の特徴なのだというわけです。
また、芸術ばかりではなく運動(スポーツ)の世界などでも同じことがいえる。例えば、柔道がそれである。柔道においては、力任せに相手をネジ倒そうとするのではなく、むしろ自分を空っぽにして、そこに相手を呼び込む。そうすると、相手が空っぽの自分の中で勝手に倒れてくれるのだ、と言います。
西洋の場合であれば、例えば画家は画面全部を塗りつぶすし、運動選手は自分の力で相手を倒そうとする。東洋では、それが反対であり、要するに人間の力の及ぶところは限界があるので、その先は自然に任せるしかない。それが、ちょうど老子の言う瓶のようなものである。先ほどの茶室もそうですが、東洋においては西洋と反対に、自然の力を重視することが大切だと、天心は言っているのです。
●花の持つ「愚かしさ」と「偉大さ」
『茶の本』第六章は「花」。いわゆる華道についてです。茶会には欠かせない花について、どのように考えるべきかを語っています。
日本のお茶における花の扱いというものは、花に敬意を払う。人間が花を余計に切り刻むようなことは許されない。そこから天心は、西洋のフラワー・アレンジメントは最悪だと言います。そのようなやり方は、人間が花を自分勝手に切り刻んで造形しているわけである。そうではなく、自然のままに花を置いておくことが大切なのだということです。
そして、天心は次のようなエピソードを紹介しています。
それは、ある夏の暑い日の茶会に呼ばれた時のこと。床の間に一輪の百合が生けられていました。「露に濡れたその花の様子は、人生の愚かしさに微笑んでいるかのようだった」と書いてあります。この「愚かしさ」は、最初の回にお話をした英語で言う「foolishness」です。これは、実は人間の知恵を超えた自然の偉大さを示している。一輪の百合の花が、全世界を超えるような、あるいは人間の知恵を超えるような力を持つ。それが人間にとっては「愚かしさ」としか見えないわけですが、禅宗の「愚」と同じような意味での「偉大さ」を示しているということを語っています。
これが、花に対するべき人間のあり方なのだと、天心は語っています。花はか弱いものであって、桜吹雪のように季節が終わればあっけなく消え、飛んでいってしまうわけですが、それは悲しむべきものではない。永遠に向かって行くのだとして、この章は終わります。