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茶室建築「数寄屋」にある三つの意味

岡倉天心『茶の本』と日本文化(4)茶室と茶会

大久保喬樹
東京女子大学名誉教授
情報・テキスト
岡倉天心の『茶の本』第四章は、「茶室」と題されている。茶室の構造が持つ趣向は、西洋建築が持つ壮麗さとも日本の寺院建築の重厚さとも正反対の極致を示す。その真髄について、東京女子大学名誉教授の大久保喬樹氏にご案内いただこう。(全6話中第4話)
時間:11:35
収録日:2018/05/22
追加日:2018/07/01
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≪全文≫

●「数寄屋」には、三つの意味があるという天心


 『茶の本』第四章では、茶室と茶会がどのようなものかについて、天心は紹介しています。茶室の建築については、「数寄屋建築」とよく言われます。この「数寄屋」の意味について、三つほどの解釈を行っています。

 天心は、それまでの日本の建築における東大寺や延暦寺など仏教寺院の重厚・壮大さに比して、茶室はそのような建築とは正反対の発想からつくられたのだと強調しています。

 さて「数寄屋」には、(それを含め)三つの字を当てることができると天心は言います。一つ目は、空っぽという意味で「空」の字を当てて「空(す)き家」。普通には、ただの「空(あ)き家」の意味になってしまいますが、彼は一体どういう意味を持たせたのでしょうか。

 茶室が四畳半などの非常に狭い空間であったとしても、そこにいろいろなものを並べたり詰めたりしてしまえば、余地はまったくなくなってしまう。しかし、空っぽであれば、そこにはあらゆるものが入る可能性がある。こういう考え方のもとになっているのは、老子の思想です。

 老子の有名なたとえを天心は引いています。空の瓶に酒や水などを詰めてしまえば、それ以上、他のものが入る余地がなくなって固定されてしまう。それに対して、空っぽであればどんなものでも入る可能性がある。あるいは、その中が自由に歩き回れる空間になる。だから、空の瓶は大切なのだという老子の言葉です。


●「空き家」だから「好き」に使えるという自由度


 茶室は、茶会を行うためにつくられた建物ですが、「一期一会」の言葉もあるように、一回一回、茶会が終わればそれらは片付けられて、空になる。そして、また新たなお客を呼んで、次の茶会が開かれる。空であることによって、さまざまな変化をもたらす、生きた空間になるのです。

 立派な装飾品などで飾り立ててしまえば、動きがなくなってしまう。西洋の美術館のように名画や宝物などで埋め尽くされていると、そこは「風通しの悪い空間」になってしまうと、天心は述べます。それに比べて、「空き家」であることによって自由な変化が可能になる。そのことを、まず最初に取り上げています。

 二つ目は「好き家」で、好みの部屋であることを天心は示します。茶会であれば、1回ごとに自分やお客の好みに合わせ、どういう花を生けるかによっても変わってくる。機会ごとに変わってくる好みを取り入れられるものとして、空っぽの「空き家」が必要なのだと言っています。


●不均衡で心の動きをよみがえらせる「違い棚」のしつらえ


 そして、三つ目の表記として「数寄屋」があります。天心は、偶数に対する奇数という意味で「数寄」を解釈しています。どういうことかというと、天心は茶室建築の中の装飾を例に挙げます。それらは左右対称にならないよう不均衡で、むしろ左右が非対称になるようにつくられています。

 具体的には、「違い棚」といって、右と左で交互に仕切りの高さの違う棚があります。これは、西洋の棚にはほとんど見られないものだと天心は言っています。

 では、なぜ東洋の茶室建築では、違い棚のような不規則な非均衡で、不安定な景色を取るのでしょうか。それは、それによって流動性、すなわち動きが出てくるからだと彼は言います。ピタリと左右対称になると、そこで動きが固定されてしまう。それに対して、違い棚のようなものは、心の動きをよみがえらせるようになっているのだというのです。


●一杯のお茶を回し飲みする茶会の「デモクラシー」


 このように数寄屋を述べた後、章の後半では茶会のプロセスを述べています。

 普通、茶室は庭園の奥の方に設けられています。茶会は、その茶室に入る前からもう始まっているのだと彼は言います。

 まず、庭に入るところから茶会は始まってきている。外界から切り離され、次第次第にそれまでの日常世界の気分が取り払われ、だんだん自然に同化していく。やがて茶室に到達すると、「躙口(にじりぐち)」といって、背を屈めて入らないとならないような狭い入り口がある。これは何を意味しているのか。それは、実社会の身分などはもうここでは通用しないということ。例えば、武士であれば刀は預けていかなければならない。中に入れば、太閤秀吉であろうと一介の百姓であろうと、まったく平等

 これを「民主社会(デモクラシー)」だと天心は言っていますが、茶室の中は王の権威を象徴する宝物なども一切ない空っぽの世界です。そこで皆が裸一貫になって、一杯のお茶を回し飲みする。そのことによって、本当に精神的な平等というものが成立する、そういうものが茶会なのであると、天心は説明しているのです。
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