●「儒教」は生き方の根本をふまえた処世訓
田口 私がやっているのは儒教・仏教・道教・禅・仏教、神道。これだけの思想・哲学が日本にはあります。
これは、実はこの本に書いてあるものを読んでいただければいいと思います(『東洋思想に学ぶ人生の要点』致知出版社)。「儒教というのは、細かい人間の言行やそれこそ一挙手一投足について、実に気の利いた注意をしてくれます」ということで、要するに悪く言えば処世訓なのですが、ただたんなる処世訓ではなくて、さっきからお話ししているようにベースがすごいから、ただ単なる処世ではないんですね。生き方の根本というものをふまえて、「その言い方はだめだよ」とか、「その礼は態度がよくないよ」と言ってくれるから、その辺の教師が注意したりするのとはやはり全然違うわけです。大権威から叱声をいただいているようなすごさがあるのです。そういうのが儒教です。
●人の心の問題に重点を置く仏教
田口 それから、仏教というのは人の心の根本を説いているというところがあって、これは、最近言われているマインドフルネス、要するに唯識論です。唯識というのは「唯(ただ)」「識(しき)」、この識というのは心という意味です。自分の心というのはどういうものか、ということを問うことであり、これは特に「阿頼耶識(あらやしき)」というものが重要なのです。この阿頼耶識の意味合いというのは、現代的には、自分の心というのは2つあって、表面的な顕在意識と潜在意識の両方を活用するのが重要だと、そういうことを言っているのです。
それから、人間関係の根本について。これはご縁、因縁果ということがあるように、何でも原因があって、それが太ってきて果になるということが説かれています。要するに、この仕組みというようなものを心の問題としてどう捉えるかという場合に、とてもよいのです。
●人間の過度を戒める「下り坂」の老荘思想
―― 確かに心の問題ですよね。
田口 心の問題です。それから老荘思想というのは、「とかく人間は過度になりやすい」と言っているのです。今日1をもらうと、もう明日には2つくれ、明後日には3つ、となるというように過度へ過度へとなりがちなものを、「もう十分です」と言って、人間が持っている、要するに人間ならではの欠点をぐっと抑えるというときに、非常にいいのです。
ですから、「下り坂の老荘」と言うのですが、なぜ下り坂かというと、何か原因となる悪いことがあるから下り坂なのです。それに気づく、これが悪かったんだと気づかせてくれる。そういう意味で、老荘思想というのは過度とか自己本位になりがちな人間の欠点に対してちゃんと戒めてくれる良さがあります。
●禅・仏教で説く「般若」-超越した知恵
田口 そして、禅・仏教というのは一言でいうと、私は「般若(はんにゃ)」ということについて説いています。般若というのは般若心経のことでもともとはサンスクリット語ですが、経典で使用されているパーリ語で「パンニャー」というのが般若です。そして「パープラジュニャーパーラミター・フリーダヤスートラ」というのが、サンスクリットでいう「摩訶般若心経」で、これは「マハープラジュニャー」。要するにプラジュニャーが「般若」になります。プラジュニャーがサンスクリット語で、パーリ語で言うと「パンニャー」というわけですね。
要するに「プラジュニャー」というのが基本なのです。このプラジュニャーとは何かというと、これについてはそのうちまたお話ししないといけないと思っているのですが、鈴木大拙という人がいます。この人が非常にいい訳を当てはめています。それは「Transcendental Wisdom」(超越した知恵)と言っているのです。ただ、単なるその辺の知恵ではなくて、直観的に人間が持っている知恵。
―― なるほど、「超越した知恵」というのは直観なんですね。
田口 そういう知恵です。「これはなんだか臭いぞ」とか「これはちょっと使わない方がいいんじゃないか」とかいうのは直観です。鈴木大拙も言っているように、これがとぎすまされているから人間は安全に人生を歩めるのです。それがなければ、自ら火に飛び込むようなことになってしまう。このように禅・仏教では般若というのは非常に重要だということが1つあります。
●「慈悲」とは一緒に「呻吟」するということ
田口 また、これは仏教全体において言えることですが、もう1つは「慈悲」ということを言っています。慈悲の「慈」というのは、サンスクリット語で「カルナー」と言います。これはそもそもは何かというと、「うめき」ということなのです。
―― 「うめく」ですか。
田口 呻吟(しんぎん)ということです。
―― ああ、呻吟なんですね。
田口 要は呻吟を説いているのです。呻吟というところにこ...