●悟りから自覚へ。絶対的存在の支持を得る生き方
田口 悟りを覚えるにはどうしたらいいか、仏教は何をやっているのかについてお話ししましょう。仏教は、英語では「ブディズム」です。ブディズムはどこから来たかというと、ブッダから来ている。ブッダとは何かというと、「目覚めた人」です。いったい何に目覚めたのかというと、「自己」に目覚めた。自己に目覚めることが第一なわけですが、自己に目覚めるとはどういうことなのか。そこに書いてくれというと、「自覚」と書くしかない。だから、自覚を持って生きているかどうか。それがまず重要です。
自覚とはどういうものか。生まれた瞬間から言えば、まずは子供としての自覚があること。それがあれば、「よく育てていただいている」という親に対する感謝が湧き上がってくる。次に弟ができれば、兄や姉としての自覚ができるし、結婚すれば夫や妻。社会に出れば社員、役職になれば部長の自覚を持つ。これらはすべて自覚で成り立つもので、それなしでは社会はとても混乱してしまいます。混乱を自分がつくっているような人間は、絶対的存在の支持を得られません。
―― なるほど。自覚のない人間は支持を得られないわけですね。
●天の願いを代わりにかなえる人間になる
田口 私は、この50年間ほど儒・仏・道・禅に親しみ、とくに漢籍を読んできて、四書五経などは隅から隅まで読みました。儒家の思想では「天」を大事にしますので、天は何を主張しているのか、何を望んでいるのかを考えながら読みました。人間を不幸にすることや世界を混乱させることを望んでいるような証拠はないか? そうした観点も含めて読んでみましたが、そんなものは一つもありません。あるのはただ一つ、「愉快な人生を歩んでくれ。そのために健全な社会をつくってくれ」。天は、これしか望んでいません。
―― なるほど。「愉快な人生をつくってくれ、歩んでくれ」と天が望んでいる、と。
田口 「そのための健全な社会をつくってくれ」という願いは、いわば天の祈願なのですけれども、天が直接的にそれをすることはできません。なぜなら、天は姿を現せないし、言葉を発することもできないからです。では、どうするかといったときに、「私の代わりに神になる存在をつくろう」と言って生み出したのが人間だという大仮説にたどり着きます。
仮説を持ち出すと、「単なる仮説ではないか...