●絶対的孤独を経験すると、ものが見えるようになる
田口 本当の愉快な人生とは、この世の絶対的存在と対話し、また、それを繰り返していくことによって、いつもこの辺(肩のあたり)に話し相手がいて、一緒にずっと歩いている。そういうわけなので、孤独感というものは、ない。
―― 同行二人(どうぎょうににん)になると、孤独感というものがなくなる。
田口 ない。ですから「不孤」ということを言います。人間は本当は「孤ならず」という。では、「孤ならず」になるとは、誰と一緒なのかというと、天や道といった絶対的存在と一緒になるのです。しかし、私は絶対的孤独も一回くらいは身に染みたほうがいいと考えています。
―― ものが見えるようになるのですね。
田口 見えるようになるし、怖くなくなる。絶対的孤独とは何なのかというと、私の場合は、タイのバンコクで夜中になすすべなく寝ていたときです。
―― 先生が水牛に刺されたときですね。
田口 水牛に刺されて、なんだか分からない無数のパイプが天井からぶら下がっている。天井の上の方には薬のビンが連なっていて、そこから何か送られてくる状況です。寝ている私の右側には看護学校の生徒か何か、正体のよく分からない人間が一人いて、看護どころかうつらうつらしている。
リーンとベルが鳴ると、何かを替えなければいけないと婦長に言いつかっていたようで、彼女は無理やり起きて、半分寝ながら作業をしている。眠れない私が注意深く見ていると、こちらの薬のビンについていたのを別のものとつなごうとしている。「それ、違うよ」と何度か注意した。そのぐらい、誰一人私というものを真に見送ってくれることのないなか、あの世に旅立たなければならない。これが、絶対的孤独です。
―― なるほど。誰も見送ってくれないことですか。
●絶対的孤独を経て、「生きているだけで100点」と気づいた
田口 映画で(豊臣)秀吉の最期などを見ると、廊下に一家眷属(いっかけんぞく)がずらりと連なっている。脈をとっていた医者が首を振って終わりの瞬間を告げると、みんながどっと泣き崩れる。そういうのが最期の様子だと私は思っていました。
ところが、よく分からないような人が一人いるところで、あの世に行かなければならない。行けば二度とこちらには帰って来られない。その思いはなんとも無念というか、孤独そのものでした。ず...