●禅が目指すのも、「天の境地」に至ること
田口 禅については、とてつもなく難しいように書かれることが多いです。ところが、私の論法からいえば、禅もやはり「天」や「神」に近づくための方法だと理解できます。これらは神と一緒の境地に至ることを目指すものですが、何も「そうなれ」と言っているわけではない。目指すかどうかが重要なことです。
―― 先生、そういうふうに言っていただくと、とても分かりやすくなります。道元の全集などを眺めるだけでは、極めて分かりにくいです。
田口 そう。『正法眼蔵』なども、「何を書いてあるの?」という感じですが、簡単に言えばそういうことが書いてあります。
道元は私の最近の尚友で、前々回の話でいうと「道元君が私の今の最大の友人だよ」と言うくらい、道元という人に惚れ込んでいます。道元が同じ日本人であることに、私は時々震えるほどです。
―― なるほど。そこまでの惚れ込みようですか。
田口 あんな立派な人と同じ日本人だというだけでありがたく、そう思うと勇気が湧いてくる。とても立派な人です。道元がなぜ立派なのか。高僧などが言っているのとは少し違った、私流の解釈をお話ししましょうか。
●「本来、悟っている」のに、なぜ修行が必要なのか
田口 叡山の横川(よが、よかわ)というと、今でも多くの人が修行に行く場所です。道元の頃は時代が荒れていたので、貴族の成れの果てのような人物がとかく僧侶になりがちでした。そういういやらしいような連中が多くいるのが僧の世界で、通俗的なものが嫌でこちらの世界に来た道元にとっては、実はこちらのほうがもっと通俗的でひどい部分もあり、嫌な思いをすることも多かったようです。
そのようななか、彼が「仏教とは何なのですか」と問うと、「生まれながらにして、人間は仏だ」と返された。さらに「生まれながらにして悟っているものだ」ともいう。これらを「本法性(ほんほうじょう)」と言い、「本来本法性(ほんらいほんほうじょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」と言うのですが、「基本的に人間は生まれながらにして悟った存在であるというところから、仏教は始まるのですよ」と言われたわけです。
この話を聞いた道元は、「仏であり、悟っているのに、なぜ修行が必要か」と疑問を抱きます。それまでに何千人もの修行...