●『正法眼蔵』の冒頭の言葉「現成公案」を読む
―― 今回は実際の道元の文章を見ていきたいと思います。最初が『正法眼蔵』の「現成公案(げんじょうこうあん)」ということですが、これは『正法眼蔵』の冒頭の言葉ということですか。
賴住 そうですね。冒頭に現成公案という巻があります。その中の前半に出てくる言葉になります。
―― では、読んでみたいと思います。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
ここをぜひ読み解いていただければと思います。
賴住 まず「仏道をならふといふは、自己をならふ也」で、仏道を習うのは自己を習うことだから、自分自身のあり方がどういうものかを知ることが、仏教を学ぶうえでは不可欠なのだと、道元は説いています。
「自己」というと、私たちはすでに分かりきったように思いがちですが、私たちの思っている自己は仮の姿である。本来はどうなのかということを、仏道の教えに従ってきちんと理解しましょうということを、ここでいっています。
―― そうなりますと、この「自己」にはかなり深い意味があるということですね。
賴住 そうですね。
●関係の中で変わり続ける「自己」
賴住 次の「自己をならふというは、自己をわするるなり」というところは、非常に重要だと思います。私たちは「自分がある」と考えていますが、本当は自分というのは私たちが思っているような形ではない。それを「自己をわするる」という言葉で、自分のおもう「自己」を忘れ、本当の「自己」とは何なのかを考える、ということです。
仏教の言葉では「無我」となりますが、私たちの思っているような固定的で確固たる「私」というものがあるわけではないのだ、ということをここでいっているのです。
その次の「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」というところですが、「万法に証せらるる」の「万法」はありとあらゆる存在ですから、ありとあらゆる存在によって、確かなものとして、私たちはここにある、ということです。
私たちは、なにか確固たるものとして「自分」というものがあって、その自分と何かの存在が関係...