●「自他一如」のもとで考える「同時」ということ
―― これは『正法眼蔵』の「菩提薩埵 四摂法」の中に、実際に道元がお書きになったものですね。
賴住 そうです。
―― では、さっそく読んでまいりたいと思います。
「同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。(中略)同事を知る時、自他一如なり。」
前回お話しいただいた「自他一如」という言葉が早速出てくるわけですね。
賴住 そうです。まず「同事」ですが、分け隔てなく「こと」をともにするということです。「不違」は違わない、すなわち一緒ということで、「同」を「不違」と言い換えています。大切なのは「自他一如」で、これが道元のこの四摂法を考えるうえでポイントとなる言葉だろうと思います。
自分と他人は、別々のものではない。自分がいて、他人がいて、それぞれ別々の要素として確固として変わらないものとしてあると考えるのではなく、自分と他人は密接に関わった一体のものであって、自分が変われば他人も変わるし、他人が変われば自分も変わる。そういう意味で一体であるということ。それをベースにして、一緒に物事をやっていくということがあることになるかと思います。
●自他の区別をやめて、執着から離れる
―― なるほど。では、先を読んでまいりたいと思います。
「愚人おもはくは、利他をさきとせば、自が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。」
賴住 そうですね。これは、愚かな人は他人を利すれば自分の利益が低下してしまうと思うかもしれない、と。
―― 例えば、自分のお金をあげると、あげた分、損をするということですね。
賴住 そうですね。でも、「自他一如」という考え方によれば、他人に何かいいことがあれば自分もよくなるということになってくるのです。
自分というものが確固としていて、他人というものが別の確固たるものとしてあるとすれば、自分が何かを所有している場合、それを人にあげれば、自分のものがなくなり損をする、ということになります。そういう考え方ではなく、自分と他人は結びつき合っていて、そのあいだにものがある。それを必要な人が使う。今は自分のところにあったとしても、あの人が必要であれば、それはその人のところに移動すればいい。そういう考え方になってくると思います。
それをすんなり移動させられるのは、自分と他人というものがつながり合っていて「一如」であるから、他人がよくなれば自分もいいのだという理屈になっていくのではないかと思います。
―― それは、まさに執着から離れるということですね。
賴住 そうですね。
―― 例えば、自分にとって非常に大切な着物があるとしても、それを相手にあげると喜ばれるのであれば、それで構わないという発想ですね。
賴住 そういうことになります。
●所有の意味を変える「布施」の本来の意味
―― では、また先を読んでまいりたいと思います。
「その布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。(中略)たとへば、すつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし。」
賴住 これは、まさに今申し上げたことを、道元が「すつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし」と表しています。自分が持っている何かの所有権を他人に渡すということではない。「すつるたから」の「捨てる」というのは、要するに自分が執着していないことを言い表すための言葉です。
さらに、「しらぬ人にほどこさん」というのは、誰にでもあげるのだ、ということです。自分の好きな人だからあげる、嫌いな人だからあげないということではなく、誰彼構わず、必要な人に施すということになっていると思います。これが「むさぼらない」ということです。「むさぼる」というのは、「自分」というものを立てて、そこに執着し、少しでも多く自分が何かを所有しようということで、それを否定しています。
要するにモノの所有ということは、自分に属してあるのではなく、モノというのは使われて初めてモノなのだから、必要な人のところに行き渡れば、それで構わない。そのように、モノと自分との考え方、人と自分との関係の捉え方を転換させないと、本当の布施にはならない。ということで、自分と他人を分けて考えて、「かわいそうだから恵んであげましょう」というのは「布施」の捉え方ではないということです。
―― 「かわいそうだから恵む」ということがないとすれば、例えば非常に高価な茶器をあげようとするときに、人情としては「この茶器の価値が分かる人にあげよう」と考えがちだと思いますが、必ずしもそうではないということですか。
賴住 そうですね。必要な人、今そこで水を飲まなければ死...