●「選択」の鎌倉仏教、「総合」の明恵
―― それでは、この表で法然と親鸞のあいだに挟まれている明恵という僧について、解説をお願いします。
頼住 そうですね。はい。明恵は鎌倉時代の人ですが、鎌倉仏教でよくいわれる「法然・親鸞・道元・日蓮」という流れの方がたとは少し方向性の違う人物です。
どういうふうに違うかというと、例えば法然や親鸞の場合は「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」と言います。実は念仏にはいろいろなやり方があります。例えば阿弥陀仏の姿を思い描くのも、「仏を念ずる」という意味で非常に重要な念仏になります。しかし、法然や親鸞はそうではなく、「南無阿弥陀仏」と口で言うことだけに絞っていったり、選んでいったりしたことが特徴です。
法然には、まさに『選択集(せんちゃくしゅう)』という主著があります。いろいろあるうちから一つだけを選んで、それに賭けていく。鎌倉仏教には、そのような方向性が非常に強いと言われています。
例えば道元の場合は「只管打坐(しかんたざ)」で、坐禅に絞っていきましたし、日蓮の場合も「南無妙法蓮華経」という法華経のお題目に絞っていきます。そのように、何かこう、一つに集中していくという方向性を、鎌倉仏教は持っていると思います。
明恵の場合、彼はもともと華厳宗の人ですが、華厳宗だけではなくて坐禅も取り入れるし、戒律も取り入れるし、また密教も取り入れていくように、非常に総合的なものを目指しています。だから、一般的な鎌倉仏教の「選択(せんちゃく)」として「選んで、集中していく」というのとは、また違う方向性を示しているということで、明恵もとても重要な人ではないかと思っています。
●最近「鎌倉新仏教」と呼ばなくなっているのはなぜか
―― それでは、今のお話でご紹介が出ましたが、年代でいうと「親鸞・道元・日蓮」という並びになっていくということですね。
頼住 そうですね。はい。
―― これは、ちょうど人物を追う形ですね。大きな流れもお話しいただきましたけれども、仏教のかたちでいうと、6世紀の半ばぐらいに仏教が日本に入ってきて、最初は「鎮護国家」仏教というお言葉がありましたが、まさに国を守ってもらう奈良仏教から、今度は山の仏教に入り、その次に「選択」と言いますか、絞っていくような仏教が展開していく。そういう理解でよろしいわけでしょうか。
頼住 そうですね。今、おっしゃっていただいた流れになると思います。そして、鎌倉仏教については、実は最近、学者のあいだでは「鎌倉新仏教」という言い方をしないようになっているということがございます。
―― 言わなくなったのですね。
頼住 そうなのです。なぜかというと、私たちが鎌倉仏教として理解しているのは、例えば親鸞が浄土真宗を開き、道元が曹洞宗を開き、日蓮が日蓮宗を開いていったような宗派の始まりです。ところが、鎌倉時代のそれぞれの宗派は非常に力が弱く、むしろ戦国時代以降に、曹洞宗や日蓮宗、浄土真宗・浄土宗が非常に盛んになっていく。そのようなことがありますので、宗派の歴史で見た場合、鎌倉時代はそれほど重要ではないと見なされているのです。
―― なるほど。はい。
●法然・親鸞・道元・日蓮は大乗仏教の思想家として大きな仕事をした
頼住 彼らは「異端」であったというような考え方が、最近の学者のあいだでは主流になっています。ただ、私自身の思想の立場からすると、やはり道元や親鸞にしても、法然や日蓮にしても、大乗仏教として非常に画期的な思想を展開したと思っています。
確かに「教団史」ということでいえば、戦国時代に大きなポイントが出てくると思いますけれども、私自身はやはり鎌倉時代のそれぞれの仏教思想家たちの意味が、とても大きいというふうに思っています。実は専門家のあいだでは今、こういう道元・親鸞・法然・日蓮などの思想研究というのが、ちょっと下火になってしまっているのです。
―― それはどうしてですか。
頼住 今まで彼らは非常に持ち上げられていたところがあるけれども、彼らはむしろ異端であるという考え方からです。
最近、鎌倉仏教を言い表すのに「顕密仏教」というような言い方がよく使われます。天台宗や真言宗のような、いわゆる「旧仏教」こそがむしろ主流であり、私たちが考えてきたような、鎌倉時代になって新しい仏教ができ、それが広まっていったというイメージで捉えてはいけないのだという歴史的見方が非常に盛んになってきたのです。
そのため、これまでは鎌倉時代に現れた祖師たちの思想が仏教研究の中心だったのが、やや弱くなってきたのかということがあります。それを私は、とても残念に思っています。
日本国内の教団の歴史でいえば確かにそうなの...