●「Thank you」ではなく「I am sorry」と言う日本人の謎
さて、そのような観点で再読することができるこの『「甘え」の構造』なのですが、再読するきっかけとして、土居健郎さんは、なぜ自分が甘えに注目したかというエピソードをいっぱい並べていくのですが、また別のエピソードに注目してみようと思います。
本書の16ページにありますが、どうも1950年くらいなので、敗戦後数年くらいのときに、土居さんはアメリカに留学のような形で渡米するのです。そこで、我々が今もけっこうやりがちだと思うのですが、感謝を相手に示したかったので「Thank you」と言わなければいけなかったときに、つい「I am sorry」と言ってしまいました。
そうすると、相手のアメリカ人はポカンとしていたというのです。何がsorryなのだということです。たしかに、我々は、「ありがとうございます」と言うときに、代わりに「すみません」と言うことがけっこうあるわけです。例えば、エレベーターでボタン押して少し待ってくれる人がいたときに、「すみません」と言って降りるということはよくします。
土居さんも別の箇所で書いていますが、逆に「ありがとう」は、我々には少し使いにくい語彙のようなところがあります。つまり、「ありがとう」と言うと、上司が部下にとか、親が子どもに、というような、目上の者が目下の人のちょっとした手伝いなどに対して「ありがとう」と言うような軽いニュアンスがあって、むしろ「すみません」とか「申し訳ありません」とか、「恐縮な次第でございます」と言ったほうが、本当に感謝していますという、より深い感謝の念を相手に伝える文化が日本人にはあるのです。
しかし、そのノリで「I am sorry」と「Thank you」と言うべきときに言ってしまうと、「何がsorryなの? よく分からない」と外国人に反応されたというのです。
なぜ我々は感謝するべきときになぜ謝罪するのかというときに、土居さんとしては、日本人のほうが欧米人よりも相手の内面を察する、思いやる、そういう情緒、文化を持っているのではないかと考えました。
これには、日本人がお互いに甘えあって暮らしているという背景がありはしないかという方向に土居さんとしては考察を進めるのですが、私としては、少し修正が必要かなと思うのです。
●コロナ禍で突出していた日本人の自責意識
欧米人だからといって個別に相手を思いやらないということはないはずであって、おそらく欧米の人であれ、日本の人であれ、あるいは欧米でも日本でもない、多様な民族であれ、相手を思いやります。気持ちは世界万国共通であろうと思うのですが、日本人の場合は、なぜか思いやりが、こういうことをされて相手は嫌だろうな、とネガティブな方向に向くので、「すみません」になるのです。
エレベーターでボタンを押して待ってくれた人がいたときに、「待たせちゃったな。なんで俺が待たなければいけないのだ、面倒くさいな」とこの人に思われたかもしれない。悪いな。だから感謝の気持ちを「すみません」と言う。こうなっているわけなのです。
つまり、相手の気持ちに配慮するというのは、普通に考えて「いいこと」と言っていいと思うのですが、日本人の場合はすぐに、相手は嫌がっているのではないか、本当は俺に腹を立てているのではないか、本当はむかついているのではないか、という方向にネガティブに相手のことを想像して、「すみません」と言っておこうとなりがちです。
これは先ほども申し上げた、日本人がコロナウイルス禍で、一番お互いに甘えを許さなかったのも当てはまることではないかと思っております。
まず1つは、感染した場合の自責意識の突出した強さです。先ほどもご紹介したように、とにかく、コロナウイルスに感染してしまった場合に、世界のどの国の国民と比べても日本人が一番、自分が悪い、自分が駄目だったから感染してしまって周りに迷惑をかけてしまった、というふうに自分を責めるのです。
つまり感染したときに、そういう自分のことを周りは「嫌うだろうな」「嫌がるだろうな」「迷惑な存在だと思うだろうな」と、とにかくネガティブな方向に思考が行くのです。日本人に、そういう癖があるということが、世界共通の感染症の危機の中で見えてきました。
●トイレットペーパーの買い占めに見る日本人の癖
またもう1つ、これもおそらく示唆的なのではないかと思うのですが、コロナウイルスの流行の初期に、買占めが起こりました。これは万国共通でありまして、特に欧米の場合は法的なロックダウンで「もう店は営業するな」というようなことが行われたので、日本以上に、ある意味で非常に激しい買い占め合戦のようなことが起こったのです。
面白いですよね。買い占...