●過激化する学生運動は桃太郎の鬼退治という側面があるのではないか
そして、土居さんは精神科医であったのでそこから非常に面白いことを言っております。この過激化する学生運動は、桃太郎の鬼退治という側面があるのではないかと、一見すると突飛なことを言うのです。具体的には、239ページあたりから出てきます。
どうも土居さんは、桃太郎の鬼退治で過激な学生運動は説明できないだろうかというアイデアを、この本の(発売の)10年くらい前、1960年安保の時から持っていたようなのですが、1970年安保とも呼ばれた全共闘の過激な学生運動を目にして、ますますその確信を深めて、こういう観点で私は今の学生たちの過激化を捉えるべきだと思う、ということを書くわけです。
ではいったい、学生運動はなんで桃太郎に似ているのかというと、これはやはり土居さんがフロイトの影響を強く受けていることがあります。
これまでは、例えば若い人が生きてきて、なんらかの生きづらさを感じる。俺は正当に扱われていないのではないか、この世の中は不当なのではないかと感じたときに、家庭内で親にぶつけました。いわゆる「反抗期」とか「思春期」と呼ばれているもので、俺は正当に扱われていないぞ、おかしいぞ、なんで俺はこうなのだということを、まず家庭内で親とぶつかり合って、そのぶつかり合いを通じて成熟していったわけです。
それはやはり、かつてはいわゆる「家父長的」と呼ばれるような親の権威のようなものが大きくて、親が家庭で子どもに対して、お前はもっとこうあるべきなのだとプレッシャーを強くかけるからこそ、なにくそ、なんで俺がそれに従わなければいけないのだという反抗が家の中で起こる。こうして家の中で個人が社会で生きていく上でのさまざまなぶつかり合いや困難を体験して、社会人になっていったというのが、これまでのあり方ではなかったかと土居さんは言うわけです。
●薄れる家庭内の葛藤と学生運動と「親ガチャ」
ところが、それがある時期から薄れてきている。つまり、家族同士もぶっちゃけ他人でしょ、親と言ってもたまたま親なだけでしょ、子どもと言ってもたまたまこの家に生まれただけでしょ、と家族関係が希薄化して、よくいえば自由になっているのだけれど、悪くいうとドライになっている。そうすると、家の中でこれはどうなのだ、俺をもっと認めろよ、というように発散をする機会がないのです。
機会がないとどうなるかというと、家庭の外で、例えば大学紛争のような形で発散する、こういうことになっていくのではないだろうか。これは桃太郎のストーリーに似ていると土居さんは言うのです。つまり、桃太郎の場合はたまたま何かが流れてきているところをおじいちゃんとおばあちゃんに拾われただけなので、この葛藤をしないわけです。
そこで、強い父に対して立ち向かって成熟するとか、そういうことが桃太郎の家で起こらない。たまたま拾われたおじいちゃんとおばあちゃんに育ててもらっているだけだからです。なので、どこで大人になるかというと、家から外に出て、鬼を退治するぞというプロジェクトを実現することによって、自己実現を果たし社会で承認を受けていくのです。
そういう状況になってはいないだろうかということを、ユーモアを交えて土居さんは書いているわけなのです。私は、これは侮れないものがあると思うところがあります。
人によっては、それは学生運動をやや茶化しすぎだと、それはどうなのかと思われたかもしれないのですが、この学生運動は桃太郎の鬼退治ではなかったのかという土居さんの1971年の本を今読むと、例えば「親ガチャ」といった2020年代の日本で流行った言葉を思い出すわけなのです。
つまり、桃太郎をおじいちゃんとおばあちゃんが引き取って育てることにしたのは、まさにガチャと同じであり、流れてきた桃をたまたま拾って開けたらいたからそうしただけなのです。
とにかく、近年日本では、要するに子どものほうが、俺は生まれた家が恵まれててラッキーとか、あんまり恵まれてなくて嫌だというようなことを、親ガチャに当たった、外れた、ガチャを回したらこんな親が出てきた、「当たりだ、ラッキー」とか、「ハズレだ、もううんざり」というような日常会話を平気でしたりするのです。
自分の親をガチャに例えるというところで現れているのは、諦めでありニヒリズムなわけです。 つまり、俺の親は嫌だ、なんで俺の親はこうなのだというときに、昔はそれが家の中で葛藤として発生しました。いい加減にしてくれよ、俺はお父さんお母さんの所有物ではないのだ、という形で親に反抗したり抵抗したりする中で葛藤が生まれて、そして親も子どもも成熟していったわけですが、そうではなくて、「俺、親...