●佐藤忠男が見いだした、小津映画の「甘え」の美学
さて、そうした形で、実はもう1971年の時点で、強い家父長のようものは通用しなくなっており、日本人の家庭の中は良くも悪くもドライになり、家族といってもお互い他人で、だからぶっちゃけあまり甘えたりしません、というようになっているという変化が起こっていないかということを土居さんは指摘していたのです。
この土居さんの理論を引用した、大変に興味深い書物が同じ年の1971年(1月)に出ています。ちなみに、土居さんの本(が出たの)は2月です。私は、映画監督の小津安二郎をめぐって『帝国の残影 ―兵士・小津安二郎の昭和史』という本を書いたことがありまして、その末尾の結論的な箇所でそれを引用しました。
小津映画は今では世界中で見られており、世界で小津研究の本がいっぱい出ているわけですが、最初に1冊丸ごと小津安二郎を研究した本として書かれたのが1971年、『「甘え」の構造』と同じ年に出た佐藤忠男さんの『小津安二郎の芸術』という本でした。
佐藤さんは、日本の戦後の映画評論の草分けというべき方で、近年亡くなられましたが、この本では世界で初めて1冊丸ごとかけて小津安二郎を分析しました。この佐藤さんの本で土居さんの『「甘え」の構造』がどう引用されているのでしょうか。
小津安二郎という人は、特に戦後は家族映画を主題にしたわけなのですが、そこで小津安二郎が伝えたかったことは何か、いったい家族を通じて何を描こうとしていたのかということに関して、佐藤さんは土居さんの『「甘え」の構造』から一つ引用しています。小津安二郎の家族映画が描いているものは何か。それは、佐藤さんの文章では(こうありました)。
「肉親に対する甘えを人一倍強く意識する人間が、その甘えに溺れることの危険を良く知っていて、甘えに過度にのめりこんでゆくことを厳しく自己抑制しようとする。その微妙な節度の意識から生み出されたもの」
それが、小津安二郎という人の家族映画であり、芸術であり、美学なのだということを指摘しているわけなのです。
つまり、家族同士だったら密接な付き合いがあって、それはある意味で本来遠慮がいらないはずの関係であって、甘え合っていいのだが、しかし、過度に甘えにのめり込み過ぎてしまうとそれはまずい。甘え合っていいけれども、甘えすぎはまずい。だからこのあたりにしておこうと。例えば「結婚するよりもお父さんと一緒にいたい」と言う娘さんと、「いや、たしかにいてくれたほうが嬉しいのだけれど、でもここら辺で送り出さないといけないだろう」と思っているお父さんとの関係を、小津安二郎の映画は描いたりするわけです。
つまり、甘えを否定するわけではなく、家族というのは甘えがあっていいのだ。しかし、それに埋没してしまってはいけない。完全に甘えきってしまってもいけない。「節度ある甘え」というものが、特に私たち日本人が社会を営んでいくベースにある生き方ではなかったかということを、小津安二郎の映画を評論するという形で、佐藤さんは土居さんの理論を応用しているのです。これは、非常に重要な問題提起ではないだろうかと思います。
最初から言っていますように、土居さんの本は、日本人だけが甘えていてよくないということについ使われがちですが、そうではないということです。(重要なのは)「節度ある甘え」です。甘え自体はあっていいのだ。ただし、そこに節度も必要なのだ、という見方というのは今、より必要とされているのではないかと改めて思うところがあります。
●あさま山荘事件と秋葉原事件――「『甘え』今昔」による現代社会への警鐘
そういう目で見ますと、非常に印象深かったのが、『「甘え」の構造』は何回か改版になっており、一番新しいものは増補普及版というものです。これが出たのは、なんと2007年なので、なかなか相当なものです。
1971年、あさま山荘事件の前年、元気のある若者が学生運動を良くも悪くもやっていた時代に出て、それが版を重ねて、最新版は2007年です。平成の真ん中くらいであり、これは分かりやすくいうと、平成期に起こった秋葉原事件の前の年、1年前なのです。それは非常に、ある意味で示唆的だと思います。
つまり、もともとは過激化した学生運動の結果、あさま山荘事件で激しい内ゲバになって、ボロボロになっていく前年に出た本の最新版が、たった1人で家を出て、派遣工のように暮らしていて、ネットの中でも孤立して、たった1人で暮らしていた若者が、たった1人で何人もの人を刺し殺してしまうという事件の前年に出ました。
どちらも悪いのですが、ここまで極端に青年のあり方、あるいは青年が暴力を振るうとしたらどういうシチュエーションで誰に振るうかと...