●受動態の使い方にみる日本人の被害的心理と「能動態幻想」
さて、このように、土居健郎さんの『「甘え」の構造』という1971年の本は、日本人だけが甘えているとか、その甘えとは駄目なものであるというような本では実はないのです。それは、「この本が広めてしまった誤解に過ぎないのだ。むしろ今の日本、そして世界と共通するところの今の日本や人間というものを考え直すヒントが満ちている本なのだ」という、新しい読み方を提示してきたわけなのです。
その観点で申しますと、注目されるところとして、受動態というものについて面白いことを土居さんが言っている箇所が208ページにあります。
英語の授業で受動態を習ったときを思い出してほしいのです。これは土居さんが使っている例なのですが、欧米語では「この家は大工さんによって建てられた」みたいな言い方を普通にするわけです。要するに、be動詞プラス(過去分詞で)受身形(受動態)というものです。
しかし一方で、日本人が日本語で「大工さんによって建てられた」と言うと、非常に持って回った変な言い方のような、間違ってはいないけどそういう言い方は普通しないよね、というかなり変な印象が残ります。
つまり、欧米語ではナチュラルに受動態を使うのに対して、日本人が日本語で受動態を使うと、どうしたの、というわざとらしい表現になる印象があります。
一方で、言語学者の金田一春彦さんの議論を土居さんが引用しているのですが、日本人の場合、被害感を示すために受動態を使うという、かなり特殊な受動態の使い方があるのです。
つまり、日本人は「この家は大工さんによって建てられた」とは言わないのですが、「子どもたちの遊び場があったのに、そこに家を建てられた」というような言い方はむしろするのです。日本人が受動態を使う、そしてそれが日本語としてもナチュラルなときというのは、被害的心理のようなものが込められていることが多いのではないかということを、土居さんは金田一春彦さんの議論を引きながらこの本で提示をしているわけです。これは結構大事な指摘ではないかと思うところがあります。
それこそ、土居さんの本がかつて、欧米人は立派に自立していて日本人だけが甘えているというようなメッセージとして誤解されて読まれることがあったように、一般に欧...