●カミュの『異邦人』を『他人』と訳すべきだった!?
この点(前回お話しした「遠慮」についての人間関係の三重構造)でもう一つ申しますと、とにかくこの本は、「甘え」を手がかりに考えたいと思った土居健郎さんが、自分の思考のヒントになったものをずらずらと引用していく形で続くのです。
58ページに、今度はフランスのカミュという作家(の話が出てきます)。新型コロナウイルス禍では彼の長編である『ペスト』が世界的に再読されることになったわけなのですが、このカミュの出世作として知られている『異邦人』という小説がございます。これが発表されたのは1942年、第二次世界大戦の最中です。日本では戦後に入って、1951年ぐらいに初めて日本語訳が出るのです。
『異邦人』はフランス語で『L'Étranger(エトランジェ)』というタイトルが原題でありまして、英語でいうとストレンジャーです。これを日本では『異邦人』と訳し、その訳は定着しているのですが、『異邦人』という訳は違うのではないかという、結構面白いことを土居さんは言っておられます。ストレンジャーだから『異邦人』と訳すこともできるのですが、『他人』と訳した方が良かったのではないか。つまりカミュの小説も、正しい訳題は『異邦人』ではなく『他人』だったのではないか。ということを問題提起していて、これが深い問題提起ではないかと思うのです。
なぜカミュの『異邦人』を『他人』と訳すべきだったと土居健郎さんは言うのでしょうか。まず、この『異邦人』を未読の方のためにざっくりご説明します。
ある人物が、チンピラ集団同士の抗争のようなものに巻き込まれて、結果として人を殺してしまいます。つまり殺人犯になってしまうわけです。抗争に巻き込まれた結果、殺してしまったような形なのですが、死刑になってしまいます。なぜ死刑になるのかというと、この人が養老院に入れていたお母さんが死ぬところから始まるのですが、お母さんが死んだときも全くの無表情で悲しそうではなかったとか、お母さんの葬式をやった後に自分の彼女と何かのお笑い映画を観に行って、その後にセックスしていたとか、そういうことが状況証拠のように次から次へと検察側から持ち出されて、「こいつは人非人なのだ。もう社会から排除すべき人間だ」というようなレッテルを貼られて過度の量刑を言い渡される、という様子を描いているわけです。
なぜ主人公はそのように振舞ってしまうかというと、土居さんの考察では、そして私もそう思いますが、この主人公は、全てが他人にしか見えないパーソナリティを持っているのです。
だから、もちろんあの人が自分のお母さんだということは分かっているけれど、他人にしか見えない。だから、「死にました」「お葬式来てね」と言うと(この主人公は)来て、お葬式が終われば黙って帰る。あるいは、(この主人公には)彼女がいて、彼女のほうはかなり彼に熱を上げていて、裁判で刑務所に入れられてしまっても、面会に来てくれたりするわけだけれど、彼女が「私のこと愛している?」と言うと、「愛って何なのかよく分からない。だから多分愛していないと思う」と素で言ってしまう。
つまり、あらゆる人が等距離に見えるのです。全てが俺にとっては他人だと。「この人は俺にすごく近しい」「この人は少し距離があるから、互いに遠慮する」「この人はもう他人だ」ではないのです。全ての人が等距離に他人であるのです。
こういう世界観を生きている1人の人物を、カミュという作家は描き出して、私たちの生きている社会とは何なのだということを問題提起として突きつけたのです。やはりこれは、ある種、一つの思考実験としても究極系を示しているところがあるわけです。
●人間関係から「遠近法」をなくしてはいけない理由
つまり、土居さんが日本人について指摘したような、身内と遠慮と他人という遠近法がなくて、全てが他人に見えるような社会というものが、カミュの『異邦人』ないし『他人』を読むと想定できるわけです。
では、みんながみんな、カミュの『異邦人』の主人公のように、全員が俺にとっては他人です、という社会を生きることになれば、(どうなるか。)それは、例えば甘えというものは消えるわけです。つまり、「身内だから分かってくれる」と甘えることはしなくなり、甘えというものは全く消えるでしょう。
しかし、それで本当に世の中は維持できるのだろうか という問いを、カミュの小説と、それを『異邦人』ではなく『他人』と訳したらいいではないかという土居さんの考察が突きつけてくるところがあると思います。
例えば、近代西洋風の普遍的な人権思想、誰にでも等しく同じ権利があるという発想に比べて、アジアの儒教的な、長幼の序があるという...