●居心地の良い社会を築く「慣習」と山本七平の日本人論
さて、こうして、夏目漱石の『坊っちゃん』に出てくる借金の返し方に見られる人間の条件というところで、土居健郎さんの『「甘え」の構造』を読み解いてきました。
相手が今どんな気持ちであるかが自分は分かるという状況をつくることが、人と人が一緒の社会で暮らしていく上では大事なのですが、おそらく、そういった状況を可能にしやすくするのが、例えば慣習といったものだろうと思うのです。
つまり、大体こういうときはこういうように反応することになっていますよという慣習がしっかりして、みんながその慣習に従って暮らしていると、あの人もきっとそれを期待しているよね、あの人、内面ではこう思っているよね、ということが人間には予想しやすくなるわけです。
これが、慣習というものが社会を居心地の良い場所にする上で大事なポイントであろうと思うわけなのです。この点で、まさに借金の返し方に関して、土居さんの『「甘え」の構造』は1971年ですが、1970年代にデビューして大きく活躍した山本七平という評論家は非常に面白いことを言っております。
『「甘え」の構造』のちょうど5年後の1976年に出た『日本教徒―その開祖と現代知識人』(角川書店)という山本の本は、彼が平家物語を分析しながら、日本人はこういうものの見方をする人なのではないかということを書いているのです。
山本いわく、平家物語に描かれている日本人のモラルというのは、恩は返さなければならない。恩を受けて受けっぱなしではいけない。恩を返さない人というのはよくない人だ。しかし一方で、恩を施した側も向こうが返してくるのを待たなければならない。積極的に、お前は俺に恩があるだろう、恩を返せよ、というように取り立ててはいけない。恩を返さない人も悪い人だが、恩を取り立てるやつも同じくらい、あるいはそれ以上に悪いやつだ。恩は返さないのも駄目だし、取り立てても駄目だというのが、日本人を基礎づけるモラルではないかと山本七平は論じているのです。
つまり、源平合戦でなぜ平清盛が敗れて、源頼朝は勝ったのかというと、清盛というのは取り立ててしまう人なのです。例えば、後白河法皇などに、あなたが権力を握れたのは誰のおかげですか、俺のおかげでしょう、だから恩を返して、あれをやりなさい、これをやりなさい、と取り立ててしまいます。
こういう人は、長い目で見ると日本の社会では嫌われていって、源頼朝のような、もっと恩は施すけど、返せと自分からは言わないタイプの人が権力を握っていくのだと、山本は論じているわけなのです。
例えば、そういった形で、世の中のモラルというのはこういうものですということが、それなりに広く社会で共有されていると、親密な関係を私たちは営みやすくなるのです。
要するに、大体こういうものだよね、こういうことをされたら、ここまではしていいけれど、ここから先は駄目だよね、という相場観のようなものが社会の中で共有されていると、いわばわれわれは心地よくそれに甘えることができます。だいたいみんなこういう世界観で暮らしているでしょうということが社会全体を覆っていれば、そんなにわれわれは不安にならずに済みます。だいたいどの人の内面も自分には分かっていると思えるわけです。
●日本には人間関係の三重構造がある
ところが、そんなにたやすくは世の中いかないものです。どうしても、この人は何なのだろう、この人の内面と俺の内面は一致しているのかということが不安にならざるを得ない状況というのが、どうしても世の中にはあるわけです。
これに対して土居さんは、63ページで「遠慮」という概念を鍵にして非常に面白いことを言っています。日本人にとっての人間関係というのは同心円のような構造をして、三重構造になっているのではないか。つまり、日本人が生きる世界というのは三重構造になっている。要はそれぞれの人を中心とする三つの輪があるのだというのです。
ここは私の言葉も加えてパラフレーズしますが、自分に一番近い同心円は身内です。これは、甘えていい領域なわけです。要するに、身内なのだから遠慮しないでいいよ、お互い甘えなさいよ、何か困ったことがあったら何でも言ってきなさいよ、という世界です。
さらに三重の同心円の一番外側が、赤の他人です。土居さんが言っているのは、身内だと甘え合うことが前提だから遠慮しなくていい。一番外側も、実は遠慮しなくていい。いわゆる旅の恥はかき捨てというものである。だって他人でしょ、もう二度と会わない人たちでしょと、俺のことなんて記憶にも残らないでしょう...