●福田恆存の自然論と小林秀雄の「砧木(だいぎ)の幹」
ということで、続きのほうに入っていきたいと思います。
先ほど、福田恆存の思想の全体像を自然への信仰という形でまとめましたが、実はこの自然への信仰、また同じところに戻ってきたことに、皆さん、お気付きだと思います。今回の講義の前にテンミニッツTVでつくった講義(「小林秀雄と吉本隆明―「断絶」を乗り越える」)の小林秀雄と吉本隆明の2人のキーコンセプトも「自然」でした。そこにもう1回、私たちは戻ってくることになったわけです。復習込みでまとめておきましょう。
福田恆存はこう言っていたわけです。つまり、集団的自我、99匹には還元できない、個人的自我の1匹へとまず遡行しました。遡行した上で、1匹が1匹だけでは支えられないがゆえに、それを支える全体性の問題、そして、そこにある自然の問題へと彼は目を移していった。そして、結論的にこう言ったわけです。つまり、過去の歴史や大自然につながっていない人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているのはその明確な意識ではないかと、まさに批評の中で語りかけることになります。
そして、面白いのは、これと同じようなことをしたのが、実は小林秀雄だったということです。小林秀雄は、もちろん福田恆存とは違う言葉でそれを言っていました。彼は「砧木(だいぎ)の幹」ということを非常に強調することになりました。砧木の幹とは何か。それはまさに、前近代にあった日本人にある感性の根本です。その根本から水と養分を吸い上げていって、近代以降に接ぎ木をした、ある近代的な制度、あるいは西洋的な価値観、これにエネルギーを渡さなかったら、私たちは個人などというものを立ち上げることさえできないではないか。つまり、砧木の幹、日本の歴史に近代を接ぎ木すること、それこそが、私たちに、私に与えられた直感に素直に従うことをもたらすのだ。つまり、後ろから押してくる力です。それをもたらすのだといって、彼の価値観の根幹に据えたわけです。
晩年、小林秀雄の担当編集者の郡司勝義という人がいるのですが、この人に言った言葉が面白いのです。「僕の弟子も福田君で終わりだな」と言ったらしいのです。つまり、それぐらい福田恆存を信頼していたのです。その信頼していた福田恆存と小林秀雄が、まさにこの直感と自然の...