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心の動きとため息…本居宣長の説く「もののあはれ」とは

『源氏物語』ともののあはれ(4)「もののあはれ」とは何か

板東洋介
筑波大学人文社会系准教授
情報・テキスト
本居宣長は、歌も物語もその本質は「あはれ」というひと言で説明できると説いたわけだが、では「もののあはれ」とはいったいどのようなものなのか。また、なぜ宣長は「あはれ」に着目したのか。友人からの問いかけから始まったという宣長の「あはれ」探究をひも解き、『源氏物語』「紅葉賀」のシーンを例にその意味するところを解説する。(全5話中第4話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:14:05
収録日:2023/08/04
追加日:2023/11/23
≪全文≫

●叙情的な『源氏物語』の根本には和歌と同じ精神がある


―― この、歌と物語の連関性というのはどのように考えればよろしいわけですか。

板東 日本の物語がどのように発生したかというのはいろいろあって、叙事的な物語と叙情的な物語があるのです。

 叙事的なものは、例えば『竹取物語』とかのお話の面白さというか、竹から女の子が出てきたという異相、今でいうとSFやファンタジーに近いお話の面白さで勝負するものです。

 それとは別に叙情的な物語というものがあって、そちらでは変わったことは起きないわけです。同性の場合もありますけれども、ひたすら異性同士がひっついたり離れたり、相手に思いが届かなくて輾転反側したりということをつらつら書き連ねるジャンルがあるのです。

 いちばん古い形は『伊勢物語』ですけれども、『伊勢物語』をご覧いただいたら分かるように、もとのコアは和歌です。男女が思いを遂げられなかったり遂げたりする和歌があって、和歌に詞書きというものが添えられていて、これはどういう恋の場面でこの2人が詠ったものですという簡単な説明があるわけです。男と女がいて、親が許さないからこっそり会っていて、こんな歌を詠み合いましたとかと語っている。それをどんどん長くしていくと叙情的な物語になるのです。

 今の例でいうと、宣長の理解なのですけれども、『源氏物語』は後者の系列だということです。だから変わったことは起きないわけです。ちょっと悪霊が出てきたりもしますけれども、やはりコアなのは男女が美しい風景描写の中で綿々と思いを述べ合うことです。

 そうすると、叙情的な物語というのは、もともとの発端は歌に添えられた短い状況説明の詞書きだったので、(それらは)もともとは主として同じだということです。それと、奇想天外なお話を語っていく(叙事的な物語)ほどジャンルが違うので、歌道と『源氏物語』を代表とする物語というのはもともと一体だったということです。

 そこでずっと求められているのは、恋とか、エモーショナルな美しい風景描写であって、だから本質は同じなのだという理解です。

―― なるほど。そうなると日本の物語の理解も非常に深まってくるような感じがいたしました。


●友人からの問いかけをきっかけに始まった宣長の「あはれ」探究


―― 続きまして、先生にご紹介いただきましたのが『安波礼弁(あはれべん)』でございます。『安波礼弁』というのは、宣長の中でどういう位置づけなのでしょうか。

板東 これも『紫文要領』と同じぐらいの、宣長が20代から30代の頃に書いた詩論というか、短い若書であって、要するに「あはれ」とは何だということです。この頃、宣長は実際「もののあはれ」とか、「あはれ」という言葉に注目していましたので、それを簡単に説明したものです。

―― はい。引用いただいたところが、「大方歌道はあはれの一言より他に余義なし。神代より今に至り、末世無窮に及ぶまで、よみ出る所の和歌みな、あはれの一言に帰す。されば此の道の極意をたづぬるに、又あはれの一言より外なし。『伊勢』・『源氏』その外あらゆる物語までも、又その本意をたづぬれば、あはれの一言以て之を弊ふべし」というところでございます。

板東 先ほどと同じく、歌も物語も、要するにそのエッセンスは「あはれ」というひと言で説明できるのだという説明です。これもやはり宣長という人の一種の徹底性というか、それまでの代々の歌詠みとか、物語の享受者も、そういうなんとなしの理解はあったと思うのですが、宣長という人はそれをはっきり「あはれ」のひと言で済むのだと述べました。何千という歌、あるいは何十種類もある物語というのが、ただひと言の「あはれ」をめぐって、それをなんとか表現しようとしているのだということです。感動といってもよろしいですし、ため息といってもいいと思うのですが、そういうことだと思います。

――先ほど先生が宣長は若い頃から「あはれ」に着目をしていたというところですけれども、なぜ宣長は「あはれ」に着目したのでしょうか。

板東 これは実は『安波礼弁』に書いてあるのですけれども、宣長が自分の郷里の三重の松阪で友人たちと歌の会とかをやっていたときに、歌や物語の本質は「もののあはれ」だと昔からなんとなく言っている。けれども、その「あはれ」とはいったい何だということは誰も突きつめて考えていないのではないか。ぼんやり、みんな「あはれ」というのがキーワードなのだとは思っているのだけれども、「あはれ」とはいったい何だということはまだ誰も考えていない。と、友人であり弟子である人から訊ねられて、たしかにそれは問題だということで、そこから一種の「あはれ」の探究が始まったと理解しています。


●「もののあは...

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