●叙情的な『源氏物語』の根本には和歌と同じ精神がある
―― この、歌と物語の連関性というのはどのように考えればよろしいわけですか。
板東 日本の物語がどのように発生したかというのはいろいろあって、叙事的な物語と叙情的な物語があるのです。
叙事的なものは、例えば『竹取物語』とかのお話の面白さというか、竹から女の子が出てきたという異相、今でいうとSFやファンタジーに近いお話の面白さで勝負するものです。
それとは別に叙情的な物語というものがあって、そちらでは変わったことは起きないわけです。同性の場合もありますけれども、ひたすら異性同士がひっついたり離れたり、相手に思いが届かなくて輾転反側したりということをつらつら書き連ねるジャンルがあるのです。
いちばん古い形は『伊勢物語』ですけれども、『伊勢物語』をご覧いただいたら分かるように、もとのコアは和歌です。男女が思いを遂げられなかったり遂げたりする和歌があって、和歌に詞書きというものが添えられていて、これはどういう恋の場面でこの2人が詠ったものですという簡単な説明があるわけです。男と女がいて、親が許さないからこっそり会っていて、こんな歌を詠み合いましたとかと語っている。それをどんどん長くしていくと叙情的な物語になるのです。
今の例でいうと、宣長の理解なのですけれども、『源氏物語』は後者の系列だということです。だから変わったことは起きないわけです。ちょっと悪霊が出てきたりもしますけれども、やはりコアなのは男女が美しい風景描写の中で綿々と思いを述べ合うことです。
そうすると、叙情的な物語というのは、もともとの発端は歌に添えられた短い状況説明の詞書きだったので、(それらは)もともとは主として同じだということです。それと、奇想天外なお話を語っていく(叙事的な物語)ほどジャンルが違うので、歌道と『源氏物語』を代表とする物語というのはもともと一体だったということです。
そこでずっと求められているのは、恋とか、エモーショナルな美しい風景描写であって、だから本質は同じなのだという理解です。
―― なるほど。そうなると日本の物語の理解も非常に深まってくるような感じがいたしました。
●友人からの問いかけをきっかけに始まった宣長の「あはれ」探究
―― 続きまして、先生に...