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欲と情――「もののあはれ」を二分する本居宣長の議論とは

『源氏物語』ともののあはれ(5)「欲」のあはれと「情」のあはれ

板東洋介
筑波大学人文社会系准教授
情報・テキスト
「もののあはれ」の原理的探究を行った本居宣長。『源氏物語』の「あはれ」を理解するには、宣長の「あはれ」論への理解が欠かせない。『排蘆小船(あしわけのおぶね)』『石上私淑言』『源氏物語玉の小櫛』『紫文要領』といった宣長の著書を読み解きながら、「欲」と「情」に二分されるという「あはれ」論を中心に、彼の議論の核心に迫る。(全5話中第5話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:11:40
収録日:2023/08/04
追加日:2023/11/30
≪全文≫

●「あはれ」の深さを分ける「欲」と「情」


―― 続きまして、先生に書いていただきましたのが、『排蘆小船(あしわけのおぶね)』のものと、『石上私淑言』ということでございますが、『排蘆小船』というのはどういうものなのですか。

板東 これは本居宣長がいちばん最初に書いた本といわれていまして、これは歌論です。『石上私淑言』と内容的にけっこうかぶるので、『排蘆小船』が宣長の最初の歌論の試作であって、5、6年した後できちっと書き直したのが『石上私淑言』です。

―― なるほど。

 では、早速読んでみたいと思います。まず『排蘆小船』のほうでございます。

 「欲と情とのわかちは、欲はただねがひもとむる心のみにて、感慨なし。情はものに感じて慨嘆するもの也」。続けて『石上私淑言』も読んでしまいますと、「いかにもあれ歌は情の方より出来る物也。これ情の方の思ひは物にも感じやすく、あはれなる事こよなう深き故なり。欲の方の思ひは一すぢにねがひもとむる心のみにて、さのみ身にしむばかりこまやかにはあらねばにや、はかなき花鳥の色音にも涙のこぼるるばかりは深からず」というところでございますね。

板東 ありがとうございます。これは宣長の「もののあはれ」の原理的な探求の中で、たしかにどんなものに触れた感動も「もののあはれ」というのだけれども、その中に深いものと浅いものがある。その中で歌とか、物語として表現されるタイプの「あはれ」と、そうではなく、浅くてあまり美しくない「あはれ」というものがあるという形で、「あはれ」を二分していく議論です。

 それを宣長は「欲」と「情」という2つに区分しています。『石上私淑言』のほうの引用にありますが、歌とか物語というのは欲ではなくて情のほうの表現であるとしています。

 具体的にどういうことかというと、次のイラストをご覧ください。

―― ここも先生がイラストでご紹介いただいております。

板東 ありがとうございます。宣長が「欲」といいますのは、一筋に願い求めるようなタイプのものです。つまり、例えば食べ物とか、人間が欲しがるお金、富、財宝といったものをわれわれが見たときに、われわれはそれを欲しいと思うわけですね。所有したい、自分のものにしたいと思う。まっすぐそれを欲しいと思う。それもたしかに感動の一部ではあるのだけれども、これはあまり「あはれ」(感動)が深くはないと宣長は言うわけです。

 もう1つのタイプの「情」というものがあって、これは対象に対してある意味で欲望するわけですが、問題は、情のほうはものに感じて慨嘆するということです。慨嘆というのはまた、ため息であって、対象を求めるのだけれども、その対象に対して何かため息が漏れるようなタイプで、これは何が違うかというと、こちらは対象にはねつけられるわけです。

 だから、あの人が恋しいけれども、ふられたらどうしようとか、あるいは桜はこんなに美しいのに、きっと明日は散ってしまうだろうとか、ある意味で相手を欲しいと思うのだけれども、相手を絶対に自分は手に入れられないだろうという、一種の諦めに伴われているということです。

 そのときにわれわれは相手に届かないわけです。だから、情のほうは相手に届かないもので、そうするとわれわれは深いため息を漏らす。恋というのは基本的にそういうものだと思われるわけで、だから満たされないわけです。

 欲のほうはけっこう満たされやすいわけで、欲しいなと思ってパッとそれを手に入れるということですけれども、手に入らないと、その前で、欲しいのに手に入らないという形で「はあ」というため息が漏れるということです。歌とか物語は後者であるのです。

 言うまでもありませんが、光源氏の恋はこういう構造になっているわけで、だから思いや感動のボルテージはいっそう深いのだという話です。

―― この欲と情というのは非常に分かりやすいですね。やはり届かぬ思いというのは深いということになるわけです。

板東 そうです。ここには引用していないですけれども、宣長は面白いことを言っています。恋というのは、最初は欲に始まるものだけれども、すぐに情に移行する。だから最初はたしかに相手を所有したいとか、合一したいという形で始まるものですけれども、それがはねつけられた場合もそうだし、あるいはうまく一緒にいられた場合でも、われわれがよく味わうように、失恋する可能性もあるし、あるいは光源氏が紫の上と(のことで)感じたように、最後に離別、死別したりしてしまう可能性もある。それからどうしても最後は思いを遂げられなくて、情のほうに移行するのだという議論をしています。

―― たしかに、日常の結婚生活でも、一緒に住んでいても情という部分はありますね。

板東 ...
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