●石田梅岩と鈴木正三に共通するもの
田口 私は石田梅岩(編注:江戸中期の思想家。石門心学の創始者)についてずっと講義をしていたわけですが、梅岩を講義するにあたっては鈴木正三(編注:江戸初期の曹洞宗の僧侶)を講義しなければよく分かってもらえない。この鈴木正三と石田梅岩が同時に言っていることは何か。共通して重要視しているものごとが、「正直」ということです。
子どもに「嘘は泥棒の始まりだよ」という「正直」があります。みなそこで留まってしまう。だから「石田梅岩は、経営の話ではなくて商人道徳論でしょう」という段階で終わっているのです。
「あれだけの人が、そんなはずないではないか」ということで、その探求をまず鈴木正三から行い、それから石田梅岩に戻る、ということを徹底的に繰り返しました。そして、この「正直」が非常によく分かってきた。巷で聞く「正直者が勝つ」「嘘は泥棒の始まり」という、町の道徳論としての「正直」はもちろんある。逆にいうと、町の道徳論としてこのような真理を軽く言っている日本がすごいと思わざるを得ません。
そうでなく、もっと深いところにあるのではないかと思ったら、鈴木正三の『四民日用』(よんみんにちよう)に徹底的に書いてあった。簡単にいうと、「仏法の正直」というものがある。「仏法の正直」とは何かいうと、「仏の前に誠たれ」ということです。
●「悟る」とはどういうことか
田口 「察」という字があるでしょう。『孫子』を読んでいると「察せざるべからず」(察することがないなどということは絶対にダメだ)と言っている。ですから戦略論の基本は「察すること」なのです。「察すること」がよく分かっていない人が『孫子』を読んでも意味がないのです。
そして、この「察」とは何かというと、「家の中でお祭り」と書いてある。「家の中でお祭り」とはどういうことか。「祭」の下部分は肉を捧げているところです。「しめすは神棚を表している。そして家にいるということは、自分のホームグラウンドにいて、心のいろいろな防御が取っ払われている状態です。「まったく素っ裸の人間として神に手を合わせたときの姿が本当のあなただ」と言っているわけです。本当の自分が仏の前に額づいて、仏との対話を繰り返すのが、仏法です。対話を繰り返すときに、塵一つのわずかな思惑や人為的なものがあってはいけないと言っている...