●なぜ漢籍は「欲望」を認めているのか
田口 3つ目の話に移りたいと思います。結局、東洋思想の中で仏教は禁欲で「(欲は)厳禁」といっているわけです。厳禁といってくれたほうがよほど有難い。要するに、「欲は認める」といわれればいわれるほど、扱いが難しくなるわけです。
ましてや、「禁欲」といっている仏教は、修行のプロセス、プログラム、それから懇切丁寧な指導がきちんとあるわけです。ところが「いや、認めるよ。欲もいいのだよ」といっている儒家も道家も含め漢籍は、全く修行のプロセスがない。欲望を認める、でも欲望に打ち勝つのはどうしたらいいのですかというと、ちょろちょろとヒントはくれるけれど、禅道場に入って毎日座禅をして……といったプログラムはない。ものすごく冷たいのです。
そこにも何か深い意味があるのではないか、と私はずっと思ってきたわけです。なぜ漢籍は欲を認めるのか。欲を認めていればいるほど、懇切丁寧に「こうやって避けるのだよ」「こうやって扱うのだよ」などとあってもいいはずなのに、「そんなものは自分で考えろ」と言われる。これはいったい何なのだろう。このテーマも30年間ほど私を悩ませました。
ほとんどの人は、やはり欲望に負けてしまう。今でも、かなり優秀な人が盗撮などをしてしまって(警察に)捕まったりするでしょう。そういったことを防止するために、人生を破綻させないためにあるのが、教えのはずです。ならば、もっと親切に教えてくれたらいいではないか。少なくとも私は、「欲望はこうやって収めていくのだよ」ということを語らなければいけない。それが私の仕事だと思っている。私がまず分からなければ意味がないから、まず「なぜ欲望を認めているのか」を考えなければいけない。
●人間に「欲」がないとどうなる?
田口 その前に、「欲望」とはいったい何かということを考えなければいけません。よく知っておいたほうがいい。これは、お分かりのように「眼・耳・鼻・舌・身(身体)」、それからこうした五意の対象である「色、声、香り、味、触覚」。こういったものが欲望を引き起こすということになっている。
これはいったい何のことをいっているのか。感覚器官と、そこから生ずる欲望を引き起こす原因となっているものです。これは「肉体」ではないか。
だから、「肉体」の制御をわれわれはどうしたらいいかを考えるとい...