●儒教・仏教的な勧善懲悪の物語としての『源氏物語』解釈
―― まさに、そのような物語を本居宣長以前の知識人たちはどのように読んできたかということで、ここもいくつか、先生にピックアップいただいています。
まず最初に先生が挙げてくださったのが、三条西実隆の『弄花抄』というところです。「大意は君臣父子夫婦朋友の道以て人に教ゆるなり(たいいは、くんしんふしふうふほうゆうのみちもってひとにおしうるなり)」とあります。
北村季吟の『湖月抄』では、「されば、勧善懲悪と云ふ、是也。此の作者の本意、是也」というところでございますが、儒教的な雰囲気があります。
板東 これは儒教的な源氏の説明の仕方です。特に『弄花抄』のほうですけれども、光源氏のやったことは全てこの「君臣父子夫婦朋友」の道を全部逸脱したわけです。特に君臣は、要するに桐壺帝、自分の父親ですけれども、あくまで天皇、主君であって、光源氏は家臣ですので、その主君の妻を奪ったわけですし、かつ、それは父と子の関係としては間違いであるわけです。父親の後妻(こうさい)を自分が奪ったわけですし、夫婦の道ももちろん逸脱しているという形で、儒教的な道徳を全部侵犯しているわけです。
だけれども、それは一種の反面教師であって、そういう意味では、最終的には満たされているけれど、満たされない失意の内に世を去ります。だから、悪い例を挙げて幸せになれないのだということを示しているということです。
それは、北村季吟の語る勧善懲悪です。特によくいわれたのは、光源氏が父親の妻である藤壺の中宮を奪ったということの一種の因果応報として、光源氏自身の妻である女三宮を柏木という別の男に奪われるということが彼の晩年に生じますので、それが、本当に自分が悪いことをしたから同じことをやり返されたのだということです。だから、そういうことをするべきではないのだと、道徳的に悪人が破滅するところを描くことで、こういうことはしてはいけないと訓戒するというのが儒教的な説明です。
―― さらに先生に挙げていただいておりますのが、中院通勝(なかのいんみちかつ)という人の『岷江入楚(みんごうにっそ)』という書物です。「これによって盛者必衰・...