●「夕顔の夢よ、もう一度」――ユーモア物語「末摘花」の伏線
『源氏物語』の楽しみというお話を続けます。
前回は「もののあはれ」を感じる、非常に愁嘆場ともいえる場面を読みましたが、そういう場面ばかりではなく、ユーモア小説作家としての才能もあるところが、紫式部の偉いところです。本当に爆笑また爆笑といった場面もあちこちに出てきます。今日はユーモア物語としての『源氏物語』の一つとして「末摘花(すえつむはな)」の話をします。
末摘花は、故・常陸宮(ひたちのみや)の姫君です。源氏は「雨夜の品定め」の場面(帚木〈ははきぎ〉の巻)で、人知れぬ古い家に美しい姫がいて、それを発見して育てるのがいい、などと言っています。それが1つの伏線になっています。
(末摘花は)ボロボロの屋敷に、もうフガフガしているような年老いた女房どもにかしづかれて一人ひっそりと住んでいるから、誰もここに姫君がいることを知りません。ところが、大輔の命婦(たゆうのみょうぶ)という女房がいて、彼女は源氏の屋敷に仕えているけれども、同時に末摘花の乳母子(めのとご)でもあります。そういう関係で、しかもちょっといたずら好きなのです。そこで、源氏が人知れぬ女に興味を持つと思い、からかい半分に常陸宮の姫君の話を吹き込むのです。
すると、源氏は心の中に煩悩の雲が湧き起こり、どうしてもこの姫君に会わずにはいられなくなります。いろいろとすったもんだがありますが、なんとか大輔の命婦の手引きで常陸宮の屋敷に忍び込み、この姫君と仲を結びます。
ただ末摘花は、何にも言わない。非常な引っ込み思案で恥ずかしがりで、源氏が何を言っても反応がないのです。拒絶しているわけでもないのですが、何も反応のない人で、源氏も「しょうがないな」と思います。でもせっかく一晩過ごしたのだから、どういう人だか見て帰りたいという、怪しい欲求が起こります。
では、この常陸宮の姫君の驚くべき風貌の場面を読んでみましょう。その前のことですが、源氏は、夕顔という女性に会い、某院で一晩過ごすのですが、彼女は物の怪に取り殺されてしまいます。その翌朝、自分で手ずから蔀戸(しとみど)を上げて、庭を見るシーンがあります。
これは夏のシーンですが、それと同じことを常陸宮の屋敷でもします。つまり「夕顔の夢よ、もう一度」というわけで、「蔀戸を開けて明かりを入れて見たら、夕顔のようにかわいい人であってくれたらなぁ」と思わせる書き方になっています。
●必死になる色男・光源氏、笑い者になる末摘花
そのくだりは「からうして明けぬるけしきなれば、格子(かうし)手づから上げたまひて」となっています。普通は恋人と一緒に一晩過ごしたら、あっという間に過ぎるでしょう。ところが何を話しても反応がないから、退屈します。だから「からうして」は、「やっとこさっとこ夜が明けた」というニュアンスです。では、そこを読んでみましょう。
《からうして明けぬるけしきなれば、格子(かうし)手づから上げたまひて、前の前栽(せんざい)の雪を見たまふ》
夕顔のシーンもボロボロの某院ですが、夏なので(蔀戸を)開けると、そこに池が見えたり草ぼうぼうになったりしていますが、ここでは同じボロ屋敷でも雪が積もっています。陰と陽、暑いのと寒いのと、全部が正反対でパロディになっているのです。
《踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、「をかしきほどの空も見たまへ。尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ」と、恨みきこえたまふ》
色男は自分が振られたように持って回る。「私はあなたに冷たくされて恨めしい」などと己を低く言う。これは一つのステレオタイプです。
《まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる》
ここのところで「雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを」という、(第3話でお話しした)「きよら」が出てきます。
《「はや出でさせたまへ。あぢきなし。心うつくしきこそ」など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひて、ゐざり出でたまへり。
見ぬやうにて、外(と)の方(かた)を眺めたまへれど、後目(しりめ)はただならず。〈いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらばうれしからむ〉と思すも、あながちなる御心なりや》
(原文で使われている)「後目(しりめ)はただならず」という場面を想像してください。見たいけれど、見られない、必死になって横目で見ている。これを聞いた人は、おそらく大笑いしたでしょう。