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「実事」とすら書かない、『源氏物語』に秘めた色恋の話

『源氏物語』を味わう(4)色恋とエロスの物語

林望
元東京藝術大学助教授
情報・テキスト
『源氏物語』には、男と女のエロティックな色恋の場面があちこちに出てくる。そうした行為を昔の人は「実事」と表現したが、『源氏物語』にはそうした具体的なことすら書かれていない。男が女の閨に入れば、それは当たり前のことだからである。閨に入ったら、次は帰るところから始まる。その間を読者に想像させるところに深いエロティシズムがある。紫上との初夜では、翌朝「女が起きてこない」と書くことで、肉体的に結ばれたことを読者に分からせようとした。(全8話中第4話)
時間:12:55
収録日:2022/02/22
追加日:2022/07/11
≪全文≫

●「ここに実事あり」とすら書かない


 では、『源氏物語』の深読みです。『源氏物語』は、ご案内のように簡単にいえば恋の物語です。男と女が出会えば恋が生じる。その恋には罪があったり、苦しみや悲しみなど、さまざまなものが出てくる。AさんとBさんが出会って好き合って、みんなに祝福されて結婚したというのでは、話になりません。そこにやはり、あってはいけないことなど、いろいろあるわけです。

 ここで少し言っておきたいのは、日本人の伝統として、「恋」には一つの形があったことです。男が女の閨(ねや)つまりベッドに、夜になったら通ってくる。そして明け方のまだ暗いうちに帰っていく。こういう形をしているのです、恋というのは。

 ただなんとなく「あの人が好きだなあ」などと、ぼんやり思っているのは恋とはいわない。憧れ程度です。だいいち昔の本当の深窓のお姫様は、人前になかなか顔を出しません。憧れることもできないわけです。

 しかし、恋となると、必ず肉体性を伴っている。一晩ともに寝て、そこに肉体的な関係を伴った上で、「愛する」「苦しむ」といったことが生じてくる。これが恋だと、日本人はものすごくプラグマティック(実利的)に考えています。「蝶よ花よ」などというのは恋のうちに入りません。

 『源氏物語』もこれを前提に書かれていて、そうしたエロティックな色恋の場面はあちこちに出てきます。ただし、それは当たり前のことです。男が女の閨へ通い、明け方に帰っていった。その間に2人で将棋を指していた、などということはありません。必ず閨をともにして、そこには性行為を伴っている。これを「性行為」などと露骨なことをいわず、昔の人たちは「実事」といいました。「ここに実事あり」などというのです。

 ところが、『源氏物語』には書いていません。『源氏物語』は、当たり前のことは書かないという文学です。ここへこうやって来て、男が女の人の閨に入った。もうそこから先は実事があるに決まっている。だから次は終わった後、帰るところから書いてある。当然、読者たちは、そこを想像するのです。

 三文小説と違って、「あっはん、うっふん」なんてことは書いていません。でもそこを想像させるところに、実に奥深いエロティシズムがあると思います。今日はそういう恋の名場面、エロスの物語としての『源氏物語』を読んでみたいと思います。

 まず「若紫(わかむらさき)」に、源氏と義理の母である藤壺(ふじつぼ)との密会場面があります。源氏は桐壺更衣(きりつぼのこうい)の息子ですが、桐壺更衣は源氏を産んで間もなく死んでしまいます。そのため源氏には、母親に対する「母恋」というセンチメントがある。そこでなんとかしてお母さんの代理を探そうとするわけです。

 その母恋の源氏のもとへ、今度は藤壺という人が入内(じゅだい)してくる。彼女は兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)の姉妹ですが、「桐壺更衣そっくり」と吹き込む人が出てくる。お付きの女房などが「桐壺様にそっくりな人」と。すると源氏は母恋ということで恋心を抱くけれど、藤壺は「まだ子どもだから」と思って源氏をかわいがる。

 やがて源氏の母恋が、だんだん色恋のほうに移り、いつしか源氏と藤壺は不義の密通をしてしまう。そのシーンは書かれていないので、想像するしかありませんが、なんといっても天皇のお妃ですから、禁じられた恋です。ばれたら大変ということで、藤壺は罪の意識に大変苦悩するのです。

 ところが、もう一度、「若紫」で源氏が藤壺と密通する。その場面です。宮中にいたのでは、さすがの源氏も藤壺の閨には行かれません。だから藤壺が病気で里下がりをしていたところを狙って、源氏は通ってくるのです。

《藤壷の宮、なやみたまふことありて、まかでたまへり。上の、おぼつかながり歎ききこえたまふ御けしきも、いといとほしう見たてまつりながら、かかるをりだにと、心もあくがれまどひて、何処(いづく)にも何処にも、まうでたまはず、内裏(うち)にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、王命婦を責めありきたまふ。 ● いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへ、うつつとはおぼえぬぞ、わびしきや》

 ここ(スライド)に赤い丸が付いていますが、この赤丸のところで実事があったということです。私が勝手に付けたのですが、「いかがたばかりけむ」というところです。

 ところがこの話のすぐ後に、藤壺が懐妊したと書かれているのです。つまりこのときの過ち(実際には2度目の過ちですが)のあと、藤壺が不義の子を宿してしまった。この子はのちの冷泉帝(れいぜいてい)で、そういうことが決定的に書かれている。やはりたいへんエロティックなシーンです。ああだこうだと変にベッド...
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