●謎多きシェイクスピアの生涯を振り返る
こんにちは。河合祥一郎です。6回にわたってシェイクスピアについてのお話をしてまいります。1回目の今回は、「シェイクスピアの謎」と題しまして、シェイクスピアの生涯にまつわる謎についてお話ししてまいりたいと思います。各10分の短い内容ですので、興味をお持ちになった方は、是非私の書いた本もご参照ください。
ここに挙げたのは、中公新書から出ている『シェイクスピア 人生劇場の達人』という本と、三省堂から出ている『シェイクスピア大図鑑』という本です。
さて、イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアは、1564年生まれで1616年に没しました。その年号は、語呂合わせで「ヒトゴロシの芝居をイロイロ書いた」と覚えます。画面に示したように、1564年という数字が「ヒトゴロシ」と読め、1616年が「イロイロ」と読めるわけです。そして、たしかにシェイクスピアの悲劇では、人がどんどん殺されますので、本当に人殺しの芝居をいろいろ書いているのです。
シェイクスピアは、どんな作品をどれくらい書いているのでしょうか。シェイクスピアは詩人で詩もたくさん書いているのですが、戯曲にかぎっていいますと、その数は40作にのぼります。悲劇、喜劇、そして歴史劇というざっくりした形で3つに分類すると、悲劇が11編、喜劇が17編、歴史劇が12編ということになります。中でも「四大悲劇」といわれる『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』は有名ですね。40作品の内容については、私の書きました祥伝社新書の『あらすじで読むシェイクスピア全作品』という解説書がありますので、ご参照ください。
●田舎者? 詩人? シェイクスピアの生涯にまつわる謎
さて、シェイクスピアの謎の生涯を見て行きましょう。
シェイクスピアは1564年4月、イングランドの田舎町ストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれました。今ではロイヤル・シェイクスピア劇団の本拠地として、シェイクスピア作品が毎年上演されている町で、観光名所にもなっていますね。彼は1582年11月、18歳のときに8歳年上のアン・ハサウェイを妊娠させて、いわゆる「できちゃった婚」をします。
ちなみに現在アン・ハサウェイという名前の女優さんがいますが、あの方はシェイクスピアの奥様とは何の関係もありません。
さて、結婚して半年後に長女スザンナが誕生していますから、「できちゃった婚」であることは明らかですね。そして、1585年2月、20歳の時、ハムネットとジューディスという双子が誕生します。つまり、20歳にして3人の子持ちとなったわけです。
シェイクスピアの父親は、かつてはストラットフォード・アポン・エイヴォンの町長も務めた立派な人物だったのですが、この時は没落して経済的に困窮していました。20歳のシェイクスピアが何の仕事をしていたのか、あるいはしていなかったのかについては情報がないのですが、なんと、この直後、シェイクスピアは妻と3人の子どもを残して失踪してしまうのです。記録がありませんので、家族に黙っていなくなってしまったのか、あるいは田舎では稼げないからロンドンで一旗揚げてくると言って出て行ったのかは分かりません。とにかくこの時点でシェイクスピアは記録から一旦消えてしまいます。
そして、次にシェイクスピアの名前が出てくるのはロンドンです。1593年にウィリアム・シェイクスピア作として詩集が出版され、その翌年には、国を代表する重要な劇団となる宮内大臣一座の劇団幹部として公式の記録に名前が載ります。そして、この詩人にして劇団幹部であるウィリアム・シェイクスピアは、1616年に52歳で亡くなるまで、戯曲40作、154編のソネット、数編の長詩を書いたわけです。
さて、ここで謎が生まれます。1582年に8歳年上のアン・ハサウェイと結婚し、1585年2月に3人の子の父親となってしまった、田舎の20歳のウィリアム・シェイクスピア君は、大学にも行っておらず、地元のグラマースクールという初等教育を受けただけの若者でした。
そんな田舎者が、8年後の1593年にロンドンで詩『ヴィーナスとアドーニス』を貴族に献じた詩人シェイクスピアと同一人物なのだろうかと多くの人が疑問に思ったのです。
ちなみに、この詩人は1589年頃から劇作を始めています。同一人物なら家出をして4年で劇作を開始したことになります。また、ストラットフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピアの家には本が一冊も残っていませんでした。あれほどの文豪が本を一冊も持っていなかったなんてことがあるでしょうか。
また、田...