●近代演劇のしきたりを超える「シェイクスピア・マジック」
こんにちは。河合祥一郎です。第5回は、「シェイクスピア・マジック」を取り上げることにしましょう。
まず、こちらをご覧ください。シェイクスピアの魅力・特徴は何かと言いますと、新古典主義的な厳密さ・緻密さがなく、奔放な想像力を重視するところにあると言えます。
新古典主義的な厳密さ・緻密さとは、“three unities”(三一致〔=筋、場所、時間の一致〕を守らない)によって表現されるものですが、シェイクスピアはこれを守りません。この説明はのちほどします。結論を先に言ってしまうと、理屈を超えて感動を呼ぶところがあり、これがシェイクスピア・マジックだといえるのです。
シェイクスピアが理屈を超越するという点は、人は過つものであるとする人文主義の考え方ともつながります。間違っていても、あまり正しさにこだわらず、愛や情の大切さを見て、細かなことにこだわらない描き方をするからです。
シェイクスピアには、新古典主義的な厳密さ・緻密さがありませんので、本を読み返してみるとおかしな点がいくつも出てきます。ところが、芝居を観ているときは、それに気づきません。シェイクスピア・マジックといわれる所以です。今回は、そのシェイクスピア・マジックの紹介と、そのネタばらしをすることにしましょう。
よく誤解されるのですが、シェイクスピアはイプセンやチェーホフのような新劇ではありません。新劇というのは近代以降の芝居で、リアリズムによって成立している劇ですが、シェイクスピアは近代以前のルネサンス時代の芝居なのです。
イギリスの場合、ピューリタン革命により1642年に劇場が閉鎖され、1660年の王政復古期に、劇場が再開したとき、演劇は別物(近代演劇)に変わっていました。
どのように変わったかというと、近代演劇では、シェイクスピアの時代にあった張り出し舞台がなくなって額縁舞台となり、緞帳(幕)があがったり下りたりして、舞台装置や書き割りが使われるようになり、女優が登場したのです。
逆にいうと、シェイクスピアの時代には女優はいませんでした。それまでは少年俳優が女役を演じたのであり、男性が女役を演じる日本の能狂言・歌舞伎などの古典芸能と同じです。つまり、シェイクスピアの演劇と近代演劇では上演のモード(様態)がすっかり異なっているということになります。
「シェイクスピアは近代以前の時代に属するものである」という認識はとても重要です。
こちらは私が撮ってきた再建されたグローブ座の写真です。
中は、大きな柱2本で屋根を支えているだけなのです。
この構造は日本の能舞台とよく似ています。
●シェイクスピア・マジック1:観客の想像力に舞台設定を委ねる
さて、シェイクスピア・マジック1「テレポーテーション」=瞬間移動です。瞬間的に場所が変わるということが、狂言では起こります。例えば、橋がかりから狂言師がやってきて、まず定位置で「このあたりの者でござる」と言って、「これから都に行こう」と言いながら、何もない能舞台をひとまわりして元の位置に戻ると、「いやっ、何かといううちに、はや都じゃ」と言って都に来てしまうわけです。言葉だけで場面が都に変わってしまうのです。
シェイクスピアも同じことをします。『お気に召すまま』で、ロザリンドというヒロインが宮廷から追放されます。「どうしよう、宮廷から追い出されちゃった」、「じゃあ、アーデンの森に行きましょう。私のお父さんがいるわ」ということで、従妹のシーリアと、道化のタッチストーンを連れて、何もない舞台の上を歩きます。そして、「さぁ、ここがアーデンの森よ!」と言うのです。まさに、言葉だけで場面が変わっていくわけです。
そもそも「○幕×場どこそこ」という設定は、幕(緞帳)ができてからのものなのです。私は今、角川文庫からシェイクスピアの新訳を出していますが、これまでの翻訳者さんは幕場指定を「場所どこそこ」と書き込んでいらっしゃったのです。ですが、実はオリジナルのテクストにはそんな場所指定はどこにも書いていないのです。お客は視覚的に場所を認識するのではなく、台詞を聞きながらそこがどこかを知るというモードになっていたわけです。