●江藤氏の自信作である評論「リアリズムの源流」
さて、AI時代に文芸評論の意義を再考するということで、より年長の江藤淳さんの業績を振り返ってみます。
江藤さんの中でもとりわけ本人にとって自信作であった評論に「リアリズムの源流」というものがあります。現在は同じタイトルである『リアリズムの源流』(河出書房新社)という評論集に収録されています。これが書かれたのは1971年10月なのですが、この年の春に江藤さんは、東工大の助教授になった。それまでずっと在野の評論家として活動されていたので、初めて大学のポストを得た年に書いた作品です。それ以降、アメリカから「江藤さんのところで日本文学の勉強をしたいです」という留学生などが来ると、「じゃあ、まず僕の書いたこれを読んでごらん」と必ず読ませていたというほど自信作の評論が、「リアリズムの源流」なのです。
ちなみに、なぜ1971年に江藤さんが大学のポストを得たか。その時期は、まさに学園紛争の最末期くらいです。当時は大学紛争の中で学生の側に共感したり、あるいは吊し上げられたりして、「もう(この仕事を)続けられない、無理だ」と大学の先生を辞める人が多かったのです。そのため、先生が辞めてポストに空きができたところで、「この江藤さんという人は、マスコミで書いているものもけっこういいから、(この大学に)来てもらったらいいのではないか」ということで採用になったのです。
そういった事情で空いたポストに入ったので、江藤さんが就いたのはどうも社会学のポストだったそうです。おそらくそれもあって、「いや、社会学はダメで、文学だろう」といった気持ちもあって、のちに上野千鶴子さんと対談されたときもそこをからかったのかなと個人的には思います。
とにかく、大学の先生になって間もなくの時期に力を込めて書いた作品が『リアリズムの源流』でした。つまり文学におけるリアリズム(現実を現実らしくそのままに描写するということ)は、いったい日本でいつから、どのようにして生まれたのかということを考える評論になっているわけです。
これがまさに、「AI時代にリアルとは何だ?」ということを考えるときにも非常に参考になるものではないかと私は思っているわけです。
ある種の非常にラディカルなAI主義、未来主義の人たちは、「人間の意識などというものは邪魔者である」としています。...