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松尾芭蕉と与謝蕪村――江戸の俳人が表現した粋な遊び心

江戸とローマ~哲人と俳人(2)蕪村と芭蕉の風流

本村凌二
東京大学名誉教授/文学博士
情報・テキスト
自然を題材にすることの非常に多い日本の詩歌だが、そこに「風流」を表現した江戸の俳人の中から与謝蕪村と松尾芭蕉の句を取り上げる。季節の風物を詠んでもどこかおかしさだったり、王朝の歌や絵の影響を匂わせる蕪村。自由気ままに旅を楽しみながら、昔の「仕官懸命」な境地を振り返った芭蕉。俳句の巨匠たちは風流の中にも滑稽や洒脱を加味することで江戸の精神を表現した。(全4話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:10:25
収録日:2021/09/16
追加日:2023/09/28
キーワード:
≪全文≫

●蕪村の句に見る自然と粋


本村 江戸の場合は、風流プラス滑稽だったり洒脱だったりします。庶民レベルでもいろいろなものがあったと思いますが、今回はせっかくですから江戸期の俳人として有名な蕪村と芭蕉の例を取り上げてみたいと思います。

 (彼らは)いろいろな素材を題材にして俳句に詠んでいるわけです。それらは自然の中のものですから、自然の動植物を取り上げることがもちろんあります。例えば夏、蛍が出てきたときの句。

 「蚊屋の内にほたる放してアゝ楽や」(蕪村)

 「楽」というのは楽しいという意味ではないかと思いますが、蚊帳の中だから、蛍が出ていかない。そんなところへ蛍を持ってきて楽しみ、遊んでいるという感じです。そんな蛍を題材に蕪村が詠んでいます。

 花瓶を題材にして詠んでいる句もあります。

 「金屏のかくやくとして牡丹かな」(蕪村)

 牡丹の花を花瓶の中に入れ、それを大きな金屏風の前に置いて楽しんでいる、というような解釈がされています。その花瓶一つとっても、そこに牡丹があって、背景に金屏風がある。そんな景色を、どこかちょっとおかしげにやっている。

 金魚鉢なども題材にしています。

 「硝子(びいどろ)の魚おどろきぬけさの秋」(蕪村)

 ここの「魚」は金魚のことでしょうけれども、それが秋の気配の近づいてくることを感じさせる。これは実は古今集にある藤原某の和歌、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」を題材に、それを少し縮めて「硝子の魚おどろきぬけさの秋」という、秋の気配を風の音からもうかがい知ろうとするようなところがあります。

 また、江戸にはいろいろな絵画(の流派)がありましたが、ある南画の影響で詠んだものもあります。

 「かなしさや釣の糸吹あきの風」(蕪村)

 釣り竿の糸のちょっとした動きに感じ取る秋の風から、そのもの悲しさを詠んだものです。


●本末転倒に生きる懸命さを皮肉った銭亀の句


本村 さらに皮肉ったような句もあります。

 「銭亀や青砥もしらぬ山清水」(蕪村)

 この銭亀については、文学者の説明を参考にしてみましょう。「山清水」というのは(水の綺麗な)土地を示す名前で、田舎ののんびりしたところです。そこに「銭亀」が住んでいる。一方の「青砥」というのは、鎌倉時代武士の青砥藤綱からきています。

 青砥藤綱は川に一〇文の銭を落としてしまい、それを拾うために五〇文の松明を買わせ(て、それで探させ)たという逸話で有名な人です。この一〇文の銭というのは公金といいましょうか、それなりの組織に属している自分の上司からもらったお金なのです。それをなくしてしまったから拾わなければ、というわけで、五〇文の松明を買ってきた。これは本末転倒ではないか、というような話です。

 銭亀は山の奥に住んでいる。それに対して、青砥という、そういうある意味では滅私奉公の代表のような人です。そのようにあくせくと滅私奉公するのか、あるいはのんびりと個人的な生活を楽しむのか。この対比を、蕪村は鮮やかに描き出しています。おまえ=銭亀は、青砥などのやっていることは知らないで、そこで安住していなさい、そのほうが幸せだよ、という考え方が潜んでいます。

 われわれは滅私奉公とまでいかなくても、どちらかというとあくせくしてお金を稼いでいるところがあるわけです。しかし、考え方によって、あるいは蕪村のような人にとっては、なるだけ自分ののんびりした時間がほしい。そのような立場に立てば、あくせくするのは馬鹿馬鹿しいだろうというようなことを詠んでいます。


●風流に滑稽や洒脱を加味する俳句の妙


本村 芭蕉にも、やはりそういうところがあります。彼は、『おくのほそ道』ではありませんが、元は伊賀の生まれの人です。そういうところに生まれて、俳人になって、やはりいろんな句を詠んだ。有名なものがたくさんありますが、その中にもどこか滑稽さを感じさせるようなものもいくつかあって、蕪村のところでも出てきた「花瓶」を題材にした句があります。

 「飲み明けて花生にせむ二升樽」(芭蕉)

 二升樽を飲み明けて、花を生ける花瓶にするという俳句を詠んでいます。

 ところが、後にこそ自由気ままに旅をする人間になった芭蕉にも、いわゆる組織の中にいた時代がありました。そういう昔の気持ちを後年になって詠った句に

 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」(芭蕉)

 というものがあります。仕官懸命の地があって、そこで武士の中の高い地位を得るというようなことを非常に羨ましく思ったこともある、ということをちらっと詠んでいるわけです。 過去の自分、あるいはそういう生き方に対して、ある種突き放したような心境が詠まれています。

 このように、自然を題材にすることの...
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