●国際秩序が動揺すると「現実主義」のほうが強くなる
皆さん、こんにちは。前回に引き続いて、「国際政治の理論」ということで、少し入門的な話をしてみたいと思います。それは、いわゆる「現実主義」と「理想主義」という二つの考え方です。
皆さんのご記憶にもまだ残っているかと思いますが、2015年夏、日本では集団的自衛権をめぐって、国会やメディア、あるいは一般大衆のなかでもさまざまな議論が行われ、対立もありました。
激しく対立する賛成・反対双方の意見を聞くなかで、私はそうした議論の背後にそれぞれの人々の世界観や人間観の違いが存在しているのではないかと感じました。それこそがまさに、国際政治における「現実主義(リアリズム)」と「理想主義(リベラリズム)」の違いであり、人間や世界の枠組みに対する見方の違いの存在であるように思います。
現実主義といえばパワーを重視する考え方ですが、リベラリズムには道義(正義)あるいは相互依存、国際機関を重視する考え方の違いがあるわけです。
今日のように国際秩序が動揺し、対立や紛争が起きてくると、どうしても「あるべき」姿を追究する理想主義より、現実に「ある」姿を見極めようとする現実主義(リアリズム)が強くなるような気がします。
●リアリズムとリベラリズム、両方の視点が必要な理由
リアリズムやリベラリズムの歴史については、これまでも議論をしてきたので省略しますが、ニクソン政権でアメリカ外交を担当したキッシンジャーは、著書『Diplomacy(外交)』(1994年)のなかで、「歴史上安定した国際秩序は、勢力均衡が機能し、観念の共有が可能となった『ウィーン体制』と冷戦中の米国の事実上の『覇権(帝国)』だけである」と述べています。
日本では、リアリストの泰斗である高坂正堯先生が、「勢力均衡の存在しないところに平和はなかった」とまで言っています。そういうリアリズムの世界が、今日の東アジアでも強くなっているのではないかという気がいたします。
現実主義の大家であるE・Hカーは、「『権力政治(パワー・ポリティクス)』を本質とする国際社会では、パワーこそが最重要の要素である」と主張しました。彼は第一次大戦から第二次大戦の間を「危機の20年」として冷徹に分析しましたが、その彼にして、「国際政治が常に権力政治であるというのは事実の一端」でしかなく、「いかに制約を受けるものであれ、いかに脆弱な支えしか持たないにせよ、力の政治に対して訴えることができる共通の諸理念の国際的な根幹と言い得るものが存在する」と述べています。
「何があったか」「何があるか」を注視する一方で、「どうあるべきか」という理想を退ける現実主義の思考に対して、E・Hカーは「その思考からは何も生まれない」と言い、どうしても不満が残ると述べているわけです。
したがって、現実主義にせよ理想主義にせよ、そのどちらかに与するのではなく、両方の視点を持つ必要があるのではないかと私は考えています。
●理想主義の追求から、例外主義に向かったアメリカ
理想主義については、第一次世界大戦への参戦を訴えたウィルソン大統領の「正義は平和よりも大切である」とのスピーチの一文に象徴的に示されました。ウィルソンの唱えた理想主義は人類史上最初の世界的国際機関である国際連盟の創設につながっていきます。
しかし、孤立主義に回帰した米国が加盟せず、大国の力の結集を欠いた国際連盟には、第二次世界大戦の勃発を止められなかったという反省があります。第二次世界大戦後、アメリカは国際連合を創設して、世界の平和と安全のために、諸国家の協調のもと、グローバルな責任を果たしていこうとするわけです。この国際連合とアメリカの関係も、実は紆余曲折をたどってきています。
例えば、今のアメリカの「一国主義」に見られるような外交と、多国間の外交である国連との間には緊張関係が感じられます。そこには、アメリカの外交を貫いてきた「例外主義」があるのではないかと思うのです。
例外主義というのは、アメリカ社会を「丘の上にある町(City upon a Hill)」と見なし、「世界が従うべき理念の灯台としての役割」を果たすという使命感や理念のことで、それがアメリカの外交に色濃く影を落としてきたといえるでしょう。こうしたアメリカの例外主義は、権力政治のヨーロッパからアメリカを遠ざけようとした初代ワシントン大統領の「孤立主義」、あるいはウィルソン大統領の「国際主義」の両者に存在しているといえます。
●アメリカ例外主義の流れと欧州統合のぶつかった壁
アメリカを「例外」とするイデオロギーは、対外的には、異質な他者を同化するか、あるいは排斥したり自己の殻に閉じこもったりするという行動につながります。前者は「中東民主化」を...