●『源氏物語』を「もののあはれ」で喝破した本居宣長
―― 皆さま、こんにちは。本日は板東洋介先生に「『源氏物語』ともののあはれ」というテーマでお話をいただきたいと思っております。板東先生、どうぞよろしくお願いいたします。
板東 お願いいたします。
―― 今回、『源氏物語』をいかに読むかということで、先生にお話をいただくわけですけれども、先生にとって『源氏物語』の魅力といいますか、読んでいくことの意味というのはどのようにお考えですか。
板東 お尋ねありがとうございます。私にとって『源氏物語』が面白いのは、少なくとも今に至るまで、この本は1000年以上、日本最大の古典として読み継がれているわけですが、ただ、ずっと読者たちが困ってきたことがある、つまりこれはいったい何なのだということです。
54帖あって、まさに何10年にもわたって、おそらく3桁くらいの登場人物が登場するわけです。たしかに、特に女性を中心に多くの読者に感動を与えてきたわけですけれども、この長大な物語はいったい何を語ろうとしているのかということについては、あまりよく分からないのです。でも面白いという、一種謎めいたテクストとしてあり続けたのです。
特に海外の学問とかを身に付けた、時代時代の知識階級、儒教や仏教を学んだ知識人たちが、例えばこれは仏教の無常の理を表現したものであるという説明をしたり、光源氏が不倫の恋をするので、自業自得の不幸な目に陥るから、このようにして人の道に背いてはならんということを主題にしているのであるとか、ずっと論じられてきたりしたわけです。
ただ、今の話でお分かりのように、おそらくそんなふうに言っても、この本の面白さというのは説明しきれていない。何か分からないけれども、とにかくこの本は面白い。人に感動を与えるものであるということを1000年以上日本人たちは考え続けてきたわけです。その謎めいた、正体の分からなさ自体が面白いのではないかというのが私の理解です。
―― そのように多くの人、特に知識人が迷ってきた中で、今回の主題が「もののあはれ」ということですけれども、本居宣長が、ある意味では現代にも通じるような読み方のベースになる部分を提示したということですよね。
板東 その通りです。宣長以前の学者たちが、ああだ、こうだと儒教や仏教の理屈で言ってきたわけですけど、そんなことをグダグダと言う必要はないのだ、これはひと言でいうと「もののあはれ」を語っているのだと断言したのが、宣長の独創だといえると思います。
●「もののまぎれ」という『源氏物語』最大のスキャンダル
―― 『源氏物語』を「もののあはれ」とひと言でいいきってしまった場合に見えてくるものというのはどういうものか。あるいはそもそもにおいて「もののあはれ」とはどういうものか。そして、本居宣長がそのような読み方をしたことで、その後の受け取り方がどう変わったかというのを、ぜひこの講義でお聞きしてまいりたいと思います。
まず最初に、そもそも『源氏物語』というのはどういう話なのかというところを先生にご説明いただければと思います。
板東 複雑な物語ですので、私のほうですごく簡単な、今日の話に関係する限りでの人物相関図を作ってまいりました。
―― 全体は相当な人数ですからね。
板東 そうですね。これはあくまで物語の最初の、54帖中、最初の10帖くらいまでの人間相関図で、この後に第2世代、第3世代と続いていきます。ただ、ここでおそらく大事なのは最初のところですので、それに限定した簡易版ではあります。
どういう話かというと、おそらく多くの方はご存じだと思いますが、舞台は平安時代の最初の頃です。藤原氏の専横が始まる前だということになっています。架空の天皇ですけれども、一般に「桐壺帝」といわれる天皇の即位期間です。そこでもちろん当時でありますから、一夫多妻制で後宮があるわけです。
そのときにこの桐壺帝と呼ばれる天皇の事実上の正妻の方というのが「弘徽殿女御」という女性で、彼女の父親は右大臣ですので、有力者の娘です。だから、よく平安時代にあった有力な貴族が自分の娘を天皇と結婚させて、あまつさえ、そこで皇子の男の子が生まれて、その子が次の天皇として即位したら、その家の権勢は盤石なものになるというような論理で動いている世界です。
事実上、もうこの物語の始まりの時点では、弘徽殿女御と桐壺帝の間に生まれた男の子が皇太子になって即位するだろうとされます。それによって弘徽殿女御と右大臣家の権勢は間違いなかろうというところでアクシデントが生じるわけです。
「桐壺更衣」というのはかなり下位の后でありますので、要するにバックにな...