●日本美術にはどういう特色があるのか
これからお話しする内容は、2014年に行った講演をもとにしています。エコール・ド・プランタン(「春の学校」)という、美術史専攻のヨーロッパの大学院生を主体とした集まりが東京であり、そこで日本美術について40分、英語で話せという求めに応えたものです。サブタイトルがジャン=リュック・ゴダールの映画のタイトル「彼女について私が知っている二、三の事柄」を借りているのは、そういう聴衆を意識していたからです。
また、そのときの研究会全体のテーマが広い意味での「枠組み」、英語で「frame」、フランス語で「cadre」でしたから、話の後半は枠という問題に関連させた内容になっています。日本美術にあまりなじみのない学生たちを相手にしたこの話は、たぶん、同様に日本美術にあまりなじみのない日本の方々にも向いているのではないかと思います。ここでは日本語で語るとともに、美術史の知識を少し補いながらお話しします。
主題は、日本美術の特質論、つまりほかの地域の美術と比較して日本美術にはどういう特色があるのかを考えるものです。こういうテーマは、だいたい日本人の美術史家が年を取ってから論じることが多いもので、例えば代表的な著作としてこのような例を挙げることができます。いずれも一読の価値がある書物です。
●日本美術の特質を論じるのは、研究者にとって罠だ
ただし、日本美術の特質を論じるのは、研究者にとって一つの罠であると言えます。この罠は、日本美術を単純化して見せようとします。「これが日本美術の特徴です」と言いながら学者が何かを差し出すとき、彼女ないし彼は、必ずほかの大事なものを投げ捨てているのです。
日本美術の特徴については、さまざまなことが言われてきました。例えば、平面的であること、装飾的、感傷的、日常的であること、遊戯性や簡素さなどです。しかし、そういう特徴を指摘した途端に、そうではないさまざまな要素が浮かび上がってきます。果たして、時代やジャンルを貫いて、一つの地域の美術に遍在する固有の性質が、簡単にこれだと言えるものかは甚だ疑問です。つまり、私自身は、日本美術の特色を一般論として論じることについては、あまり大きな意義を認めていません。私たちにできるのは、日本美術のどういう傾向を面白いと考えるか、具体例に即して検証し続けることだと思っています。
それでも、この話では、日本美術についてほとんど知らない方を相手に日本美術の特徴を話せという課題を敢えて引き受けてみます。日本美術の特質を論じることに潜む罠からは私も逃れられないことを自覚しながら、せめて、これがそんなに単純な話ではないことを示すために、わざと矛盾した2つの話題を設けてみました。つまり、最初に日本美術には境界がないと言い、次に日本美術には枠があると言うのです。以下本題に入ります。まず、境界がないという話から始めます。
●日本美術では具象的なものと抽象的なものが共存する
具象的なものと抽象的なものとが、一つの空間に共存するところに、日本美術の魅力が宿る場合が多い、と私は思っています。実際の物の自然らしい形と、そういう形を離れた形とが、同じ空間にあるのです。
ヨーロッパや中国の美術は、非常に早い段階で見事な自然主義の造形に到達しました。例えば左は、紀元前5世紀のギリシャ彫刻に基づいて造られた、2世紀のローマのコピー「円盤投げ」です。右は、紀元前3世紀に秦の始皇帝の墓に置かれた「武将俑(ぶしょうよう)」です。いずれも人間の肉体をいかにも本当らしくかたどっています。
日本の美術は、自力で同じようなレヴェルの自然主義を達成することはありませんでした。最初に中国、だいぶ遅れてヨーロッパの影響を受けて、自然を再現する技術を発達させましたが、この生徒は、偉大な先生たちのような徹底したリアリズムを身につけようとはしないで、いつも何か違うことをしていたように思えます。
例えば、山形県西の前遺跡から出土した「土偶」は、弓形にまとめられた髪、三角形の肩と胸、太い四角い柱のような脚という具合に、曲線と直線を巧みに結びつけて、人体を力強いフォルムに仕立てています。アルベルト・ジャコメッティなど20世紀の彫刻家に見せて、感想を聞きたかったような代物です。こういう抽象的な形態への好みを、この生徒、日本美術は抱え続けました。
●ヨーロッパや中国では抽象的な文様は周縁的な場所に用いられる
ヨーロッパや中国のような文明の造形においては、具象的なものと抽象的なものとは、はっきりと区別されます。そして、具象的なイメージこそが中心となり、抽象的な文様のようなものは周縁の装飾となる傾向があります。
大英博物館が所蔵するギリシャのアンフォラを、例に挙げましょう。二つの...