●日本の絵画は、画面の枠の存在に対して意識的だった
2つ目の話題に移ります。画面の枠の問題です。19世紀のヨーロッパ・アメリカの美術では、ジャポニスムが流行しました。日本美術の造形的な特徴を取り入れて生かそうとする試みです。そのとき、彼らが、描かれたモチーフの一部を画面の枠によって切り取る浮世絵の手法を採用したことは、よく知られています。
ここでは歌川廣重とアンリ・トゥルーズ=ロートレックの例を挙げておきます。伝統的に、ヨーロッパや中国の絵画は、画面の枠の中に描くべき対象の全体が収まるようにしていました。日本の絵画は、時折、画面の枠というものの存在に対して意識的でした。そのことを数点の例で観察してみます。
●映画のカメラのように、絵巻の視点は自由に動く
12世紀の絵巻「信貴山縁起(しぎさんえんぎ)」は、3巻から成り、命蓮(みょうれん)という僧侶にまつわる説話を絵画化しています。第1巻は、いきなり奇蹟の場面から始まります。
命蓮は、自分は信貴山にいながら超能力で鉢を山麓の長者の屋敷に飛ばし、お布施を受けていました。ところが、長者が施しを怠って、鉢を倉に入れたままにしたため、鉢は倉の錠前を破って転がり出ます。金色の鉢はそのまま千石の米俵が入った校倉を持ち上げて、空中を飛び、信貴山の上に長者の倉を運び去ってしまいます。ここで倉は、その下の方の部分しか見えません。上の方は画面の外側に出てしまっています。画面の枠が倉を切り取ることで、倉が日常の世界から切り離された、超常的な高さにあることが強調されるのです。
長者は馬に乗り、供を連れて倉を追いかけます。倉はやはりそのほとんどの部分を画面の外に出して、空中をゆらゆらと飛んで行きます。絵巻の形式の源流は中国にあるのですが、中国の説話を描く絵画で、画巻(巻物)の形式に描かれたものに、同様の表現を見せるものはありません。いま知られている中国の画巻では、出来事は全て画面の枠内に収まるように描かれます。
信貴山にたどり着いた長者は、倉を返してほしいと命蓮に懇願し、命蓮は倉を残して中の米俵だけを返すと言います。鉢に米俵1俵だけを乗せると、それに続いてほかの米俵も空中を飛び始めます。
この場面でも、何十俵もの米俵は、その上の方が画面の上端で切り取られています。この現象が日常の世界をはるかに離れた高さで起こっている奇蹟だということを、この手法が印象づけるのです。映画のカメラのように、この絵巻の視点は自由に動きます。そして、フレームが動くことによって、フレームの中にあるものと外にあるものとの関係を生き生きと変化させます。
空中を飛び渡ってきた米俵は、長者の家の庭に次々と着陸します。それは家の女たちのすぐ近くで起こっている出来事ゆえに、いっそう彼女たちの驚きが大きいのだということを、絵巻を見る者に納得させるのです。絵巻は、理論的には、左へ左へとどこまでも展開していくことのできる画面形式です。その意味では左側の枠というのはないといってもいいのです。そういう左には枠がない無限定の形式において、上下の枠を意識した描写をしているところに、この絵巻の見どころがあります。
●唐宋の画巻は、絵の中の空間が画面の枠を超えて広がったりしない
画面の枠に対して意識的な絵画というのは、もちろん中国においても作られていました。例えば北宋の「枇杷猿戯図(びわえんぎず)」では、枇杷の幹が画面左の枠を飛び出してから中に戻り、その枝がまた画面の上の枠を出て戻ります。こういう構成は、樹木の大きさを表すと同時に、幹と枝のあしらいによって、画面に興味深い、いくらか幾何学的な形態を作り出します。
中国の花鳥画は、こういう画面の枠を意識した構図を明代に至るまで繰り返し、15世紀末には日本の画僧雪舟がそれを採用することになります。雪舟は、画面の枠を超える樹木というモチーフを日本の画壇に持ち込み、狩野派がそれを受け入れて、襖・屏風のような大画面の絵画を多数制作したわけですが、それはまた別の話題です。
明らかに「枇杷猿戯図」の画家は、「信貴山縁起」より1世紀ほど前の時代に、画面の枠の効果に意識的でした。しかし、同時代の画巻についてはそうはいえません。すばらしい都市図である「清明上河図」は、画面の枠で切り取られるモチーフを描くことは稀ですし、私の知る限り、唐宋の説話図の画巻は、「信貴山縁起」のように画の中の空間が画面の枠を超えて広がり、そのことによって鑑賞者に枠を意識させたりはしないのです。「信貴山縁起」の発想はどこから来たのでしょう。いまの私には答がありませんが、何か分かるといいなあと思う問題です。