●「死」と「老い」、「現実の喜び」ついて考えさせる“語りの標”
鎌田 しかし、それでも浦島太郎は生きながらえ、(物語りをしたという話は伝わっていませんが)歌を残しています。浦島太郎が海中に住む妻(常世の国の仙女の娘)と歌を交わすのです。
「常世べに 雲立ちわたる 水の江の 浦島の子が 言持ちわたる」(浦嶋子の歌)
「大和べに 風吹きあげて 雲離れ 退き居りともよ 吾を忘らすな」(仙女の歌)
「子らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 波の音聞こゆ」(浦嶋子の歌)
「水の江の 浦島の子が 玉匣 開けずありせば またも逢はましを」
「常世べに 雲立ちわたる たゆまくも はつかまどひし 我ぞ悲しき」(時の人の歌)
要するに、ここで自分がかつての妻との間に思いを交わし合う悲しみ、切なさ、愛情といったものを伝え合う。同時に、それを聞いたときの人々が、「ああ、あの玉手箱を開けなかったら、また元に戻って2人は仲良く幸せに過ごすことができたのに」「開けなかったらよかったのに」「開けてしまったためにこういうふうになったのだなあ」と感じる。
そのような経験を語ることを通して、時間や寿命というものをどのように経験していくのか、私たちの生存の持つ儚さや悲しさ、そういった現実をよく知って受け入れなさい、といったことを発信していると思うのです。
―― そういう意味では、1つのグリーフケアというか、死を受け入れる準備のようなものにもなるわけですか。
鎌田 「死」と「老い」、それから「現実の喜び」ですね。
3年も300年も、実はそんなに大きく根本的に変わるものではない、過ぎてしまえば夢幻のようなものだ、と。青春の時代はずっと、このまま生き生きとしたものが続くように思われるけれど、その3年間の幸せな青春時代はあっという間に過ぎ去ってしまい、老いを迎えて、どうしようもない運命の儚さを感じ、その嘆きの中で人間はやがて死んでいく。だから、その中で生きる喜びや悲しみといったものを味わいつつ、この世をあなたの良きように、あなたの望むように、あなたの良き生きる形を作りなさいよ、という諭しにもなると。
これを聞いた人は考えさせられると思います。ただ「ああ、面白いお話だな」と思うだけか、あるいは自分の行く末のようなものを感じるか。なぜ300年が3年の間なのかということに思いをめぐらせながら、私たちが生きている時間軸とは違う時間軸の世界(常世の国や常若の国)があって、しかし私たちはこの現実世界の時間軸の中でどのように生存していったらいいのか(過ごしていったらいいのか)。そういうことを考える1つの標(しるべ)になっている。つまり、それが“語りの標”になっていると思うのですね。
それを通して、「死んでも、もしかしたら別の世界があるかもしれない」という希望を持つ。あるいは今回のシリーズ講義の中で臨死体験の話が出ましたが、臨死体験の場合は、死の体験に近いようなことです。あの世の国(別世界)に行って、その別世界でも時の流れの中に住み、そしてまた戻ってきて死ぬ。そういった「死」と「生」の循環をくり返している話とも解することができる。それを通して、私たちの存在の意味を、悲嘆の語りの中からくみ取っていく。そういう構造になっていると思います。
●世界各地に類似する神話の普遍的要素と役割
鎌田 こういう話が、実は世界各地の神話類型として類似の話があります。もちろんさまざまなディファレンス(違い)もあります。風土や場所、その土地の言語などがみな違いますから、そういった中での違いは当然生まれてきます。北欧であれば氷河が出てくるけれど、日本であれば火山が出てくる。台風がよくやってくる地域には台風の神話類型が生まれてくる。そういった風土的なもの、ある種その地域性の豊かさが神話に刻印されています。
ですが同時に、共通の普遍神話要素も含まれています。その普遍的な神話要素とは何か。それは、人間は死ぬということ。そして神々の中にも、死ぬ神々と死なない神々がいるということ。そして、死なない存在と死ぬ存在との間の、世界の存在の関係性はどうなっているのかといったこと。これを語るのが1つの共通の要素となっています。
それから、必ず戦いがあるということです。神々の世界にも戦争(戦い)がある。一神教の場合は、戦いというものは裏切る、戒め、タブーを守らない(その諭しや戒めを破る)といったことです。ある種の反逆や反抗、裏切りなどを通して「罪と罰」、あるいは悪というものが起こってくる世界の中で私たちが未来を切り開いていくことに対する覚悟、心構え、ビジョン、生きる力のようなものを考えさせられる。そういったことが共通の要素としてあります。
だからこそ、神話は生きる力を与えてくれる。さまざまな形...