●『万葉集』には多くの漢語が登場する
今、私たちは『万葉集』を「まんようしゅう」と読んでいます。平安時代の人が「まんようしゅう」と読んでいたかどうかは、『古今和歌集』の仮名で書かれた序文に「まんえふしふ」と出てきますので、「まんにょうしゅう」と読まれていたことはたしかです。けれども、奈良時代の人が本当にそう読んだかどうかは分かりません。もしかすると、漢字通りに「ばんようしゅう」と読んでいた可能性もありますし、「よろづよのしゅう」と書き下しで読んでいた可能性もあります。
『万葉集』というものは日本の古代文化であり、日本の古代文化は日本文化全体の基(もとい)、礎石、基礎といったものにつながりますので、『万葉集』を通じて日本文化全体を考えていくことができるわけです。
例えば今、「やたらと日本語の中に外来語が入ってきて、けしからん」と言う人がいますね。私も、その1人です。やはり「インフォームドコンセント」と言うならば、「納得いくまで相談をする医療」などという具合に置き換えていくべきだと思います。決して外国語を排除する必要はないのだけれども、置き換えて説明していく必要がある。外国語が独り歩きしないようにすべきだと思うのです。
実は、『万葉集』もそうなのです。例えば、私たちは「春が来た」と言います。「春が来た 春が来た どこに来た」と言いますよね。ところが、『万葉集』には、春がやってくるという表現は、「春さり来る」という言い方をすることもあるのですが、「春が立つ」と出てくるのです。「春が立つ」と言ったら、漢語「立春」を大和言葉に翻訳したもので、誰も「春が立ったなあ」とは言わないのに、歌の中では「春が立つ」と言っている。
例えば、私たちは「風が吹く」とは言います。「風が強い」も言いますよね。「風が寒い」も言いますね。ところが、『万葉集』を読んでいると、「風高し」と出てくるのです。上空で風が吹いているということではなく、「風高し」のおそらく言わんとするところは、「風が強い」ということだと思います。それを「風高し」と言っているわけです。これも翻訳なのです。
●『万葉集』は中国的でもあるが、日本的である
さらに、『万葉集』巻3の、大伴旅人の「酒をほめる歌」は、そのまま読んでも絶対に分かりません。なぜ分からないかというと、この酒をほめる歌(お酒にどうい...