●母国語で高等教育ができるということ
少し毛色が違う話になるかもしれませんが、自分自身が臨終を迎える際に、妻が枕元で「お父さん、お父さん」と呼びかけているとします。その呼びかけられている死の間際に、「サンキューベリーマッチ」と言いますか。さらには、「深く感謝の意を表します」と言いますか。
おそらく私は、声を振り絞って、こう言うと思います。「ありがとう……」。声を絞って、「ありがとう……」くらいの感じで言うと思いますよ。
「ありがたい」というのは現代語形容詞で、古典語形容詞は「ありがたし」です。「ありがたし」は、有るのが難しいということです。有るのが難しいとは、あなたが私にやってくれた行為はなかなかできるものではない、ということ。そこから、形容詞「ありがたし」が感謝の気持ちを伝える言葉になるわけです。言葉の歴史を背負っているわけです。それがわれわれの言葉なのですね。
実をいうと、高等教育が母国語でできている国は意外に少ないのです。
英語は当然、できます。世界の英語ですから。ドイツ語も当然ですね。学問の歴史もあります。フランス語も当然、大丈夫です。スペイン語も、実をいうとけっこうマーケットが広い。ラテンアメリカまで入りますから。さらに中国語は10億以上という人たちがいるので、可能です。
たった1億の人口で、ほぼ高等教育がまかなえているのが、実は日本です。韓国はたくさん大学もありますが、少し特殊な分野になると、外国の学校に留学する以外には道がない場合があります。韓国の音楽家がほとんど外国で教育を受けているのは、そういう事情があるようです。実際に、今の韓国の知識人層は子どもをアメリカの大学に入れることに一生懸命です。われわれは一応、さまざまな分野も含めて、日本語で教育できているわけです。お医者さんの教育も、ほぼできるわけです。
かつて医学を勉強する人は、ドイツ語でなくてはどうしようもなかった時期があります。私の曽祖父でしたら、農業の勉強について、家に残っているテキストなどを見ると、英語で勉強をするしかなかったようです。実際にアメリカに留学をしていますから、そういう状況がありました。
それ(母国語で高等教育をする)には、お金がなければいけませんし、一定の人口規模がなくてはいけません。もう1つは、その言葉を自由に使い回すためのさまざまな歴史が必...