●日本の古典の代表『百人一首』のもとをただしてみる
東京大学の渡部泰明です。和歌文学を専門としています。今日は『百人一首』について、お話をさせていただきます。
『百人一首』ほど愛された古典はないといってもいいでしょう。現在でも、生徒に『百人一首』全てを暗記させる高校も多く、かるたなどでも大変親しまれています。日本の古典を代表する作品といっていいだろうと思っています。その『百人一首』、もとをただせば一体どういうものだったのかについて、お話しします。
『百人一首』は、百人の歌人から一首ずつ歌を選んで、総計百首から成り立っています。百人の百首ですから、正式には「百人百首」というべきですが、通称として『百人一首』と言われています。天智天皇から順徳院まで、かなり幅のある時代から歌人たちを百人集め、それぞれの代表作を一首ずつ選んで成り立っているわけです。
一番古いところで有名なのは天智天皇で7世紀の人(若干ですが天智天皇以前、すなわち奈良時代より前の人もいますが)。ずっと下って順徳院は13世紀を生きた人ですから、若干は鎌倉時代に入っていますが、基本的には平安時代の人がほとんどで、その間をひとまとめにすると「古代」ということができます。
●『百人一首』は、古代和歌史の教科書
平安時代以前をくくって「古代」と呼ぶとすれば、ここには古代歌人の代表者が集まっているということになります。いわば古代和歌史を一覧するのに大変便利な本で、古代和歌史を学ぶ人の教科書になる存在です。実際に出来上がったのは鎌倉時代といわれていますが、室町時代あたりから教科書として非常に広まっていったとされています。
例えばこれは、『百人一首』の最も古い写本の一つです。応仁の乱より少し前、室町時代に写された『百人一首』で、きれいな字で書かれています。こういうものを見ながら勉強したのでしょうか。
勉強には、今も昔も「虎の巻」が切っても切り離せないものです。『百人一首』に関しても、「虎の巻」に当たる注釈書が昔からおびただしく出されました。注釈書だけを集めて全20巻の叢書ができるぐらいで、本当にたくさんあります。
こちらの『百人一首抄』がそういうもので、『百人一首』の注釈書です。連歌師の宗祇が著したものと言われ、『百人一首』の注釈書の中では最も古いものと考えられています。
注釈は、相当細かい部分にも及びます。注釈がないと分からなかったということにもなりますが、これほど『百人一首』を懸命に勉強していた人たちが昔からたくさんいたことが分かります。
●3つの謎を持つ『百人一首』
このように、日本で最も愛された古典の一つといってもいい『百人一首』なのですが、非常に謎めいていて、分からない部分がかなりあります。まず、どうやって出来上がったのか、という成立の謎があります。
それから、百人の歌人を選んでいるけれども、ベスト100なのだろうか、トップの百歌人を集めたのだろうかというと、どうもそうは思えないのです。そのような「なぜ、この歌人が選ばれているのか」という謎が二つ目。
さらに三つ目としては、百人の歌人たちが選ばれるのに不思議はないとしても、では、その歌人たちから一首ずつ選ぶとして、この歌が本当に代表作なのだろうかという点。私は先ほど代表作と言いましたが、本当に代表作でいいのかどうか、結構議論の余地がある歌が選ばれている例は少なくないのです。
そうすると、「なぜこの歌人を選んだのか」、また「なぜこの歌を選んでいるのか」、そして「一体それは、誰がいつどのようにして選んだのか」。実はこれらについて、本当に確かなことは分かっていないのです。
現在の通説では、鎌倉期の1235年ごろに、のちに「歌聖」と崇められた藤原定家が選んだのだろうといわれています。『明月記』という漢文で書かれた彼の日記の中に、どうやらそれらしい記述が出てくるからです。
『百人一首』という名前は全く出てきませんが、それに近い作品を定家が著したことが書かれているので、藤原定家でいいだろうということになっています。私も今では、選んだのは藤原定家と考えるようにしています。ただ、そう考えるにしても、「なぜこの歌人?」、「なぜこの歌?」という疑問は尽きないのです。
●歌自体の謎めいた魅力が800年後も愛される理由
それからさらにもう一つ、謎があります。『百人秀哥』というものがあります。『百人一首』ではなく『百人秀哥』です。これもやはり100人(正確には101人ですが)、ほぼ似たような作品が集められています。これとの関係はどうなのだろうか。
こちらを選んだのは誰かもよく分かっていません。現在の通説では、これもやはり藤原定家が選んでいるとしますが、『百人秀哥』と『百人一首』のどちら...