●魅力と謎に満ちた『吾妻鏡』の持つ意味とは?
皆さん、こんにちは。
これから機会を捉えまして、日本の歴史、むしろ日本の歴史書、歴史家とは何だったのかということについて、少し古典などの紹介を交えてお話してみたいと思います。
今日はその第一回目としまして、『吾妻鏡』についてお話してみたいと思います。
『吾妻鏡』はご存知の方も多いかと思いますが、鎌倉時代の歴史を扱った書物です。しかし、この書物は魅力的な本であると同時に、大変多くの謎が含まれている歴史書でもあります。
まず、この書物はいつ作られたのか、あるいは誰が作ったのか、そして、何のために書かれたのか、こういうことがまだ専門家によっても十分に結論が出ていない不思議な謎の書なのです。また逆にいうと、そこに大変多くの魅力のある書物でもあるのです。
『吾妻鏡』がまず問題になるのは、そして現代の私たちにとっても重要なのは、この書物が武家政権がつくられた鎌倉を中心にして、東国の歴史や東国を基盤とした日本で最初の武家政権の政治権力の意味を問い、そこで繰り広げられた鎌倉幕府のありさまを後世に伝えてくれている点です。すなわち、この書物は日本でほぼ最初の武家の本格的な年代記としての意味を持ち、東国において武家政権をつくり、権力の場所をつくった武士たちが中世という時代を担ったことや、それに関わる証明の書であったのです。つまり、武家が鎌倉を中心にして新しい歴史をつくった時に、彼らはそれをどのように記録しようとしたのか、ということです。またこの点においては、私たちが後世の徳川の時代、江戸時代という武家政権のクライマックスを考える際にも、大変大きな歴史の流れの中で考察する必要がある書物になっています。
●現代政治の手掛かりとなる『吾妻鏡』の魅力
『吾妻鏡』はなぜ今にまで多くの人々が関心を持っているのかといいますと、やはり徳川家康の影響が大きいと思います。徳川家康は江戸に幕府を開いた時、当然彼は尊敬すべき先人として、源頼朝が同じ東国の鎌倉に幕府を開いたという故事を参考にしたはずです。
その際、この鎌倉幕府の先例に倣い、頼朝のさまざまな故事、あるいは彼の成功や失敗、これらを教訓として学ぶことによって、江戸幕府の経営に向かったに違いありません。そのようなことを知る上で非常に重要な書物が、この『吾妻鏡』なのです。
家康と秀忠の親子は、この『吾妻鏡』を愛読したということで知られています。江戸時代において自分たちの武家政権とは何なのか、そしてこれは日本の歴史において何を意味するのかという、歴史に対するある種の意識を持とうとした時、このように成熟した歴史意識に対する人々の関心、武家の関心というものが鎌倉武士の来歴を語る、ひいては武士の来歴を語る『吾妻鏡』に対する関心につながったのではないかと、専門家たちは語っています。
すなわち、『吾妻鏡』は、いつの時代にも重要な、そして現代においても重要である政権の創業と運営、そして政権の維持、政権をつくるだけではなく、それを維持し発展させるという政治家のリーダーシップ、政治家の使命感というものを考えるときに、依然として私たちにとっても重要な基本史料、物を考える手がかりを与えてくれる書物ではないかという点が魅力的なのです。
ですから、徳川家康などをはじめとして昔の武士たちがこの『吾妻鏡』を参照したように、私のような歴史家の立場からすれば、今の総理大臣や大臣だけではなく、多くの国会議員の皆さんたちにもこうした本をひもといてほしいと思うのです。そして有権者たる国民も、私たちの心の重要なよりどころである東国、関東という地域を中心にした日本の社会を考える際に、重要な手がかりとして『吾妻鏡』を読むということも興味深いのではないかと思います。
●源氏三代と北条得宗家で語る鎌倉武家政権の歴史
『吾妻鏡』は全体で52巻からなっていまして、そのうち第45巻が欠けています。15巻までは、圧倒的に頼朝が主人公です。24巻までは源氏の三代、すなわち頼朝、頼家、実朝という三人の将軍が描かれています。残り、つまり全体の半分強は、源氏の三代が絶えた後に鎌倉幕府の運営にあたる、行政の実務の最高官庁であった政所の執権という職にあたった北条氏が、今度は主人公として表面に現れてきます。北条の中でも得宗家というのが、その中心です。
得宗とは第二代目の執権の北条義時の法号、仏門に入った時に号したその名称です。この得宗家が北条の歴代の執権の嫡流であり、それは義時から泰時につながれ、その後、経時、時頼、あるいは時宗、そして貞時、高時とこうした流れが中心になって、時には枝葉の諸流の方に執権がいくこともありましたが、基本的な流れはこの北条義時、泰時の流れです。これを...