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百人一首の在原業平の歌は代表作?…背負う物語とは

百人一首の和歌(2)在原業平

渡部泰明
東京大学名誉教授
情報・テキスト
いくつもの謎を抱える日本古典の代表『百人一首』を、日本文学研究者で東京大学大学院人文社会系研究科教授の渡部泰明氏に案内いただくシリーズレクチャー。第2回からは個別の歌人と選ばれた作品の謎に迫っていく。今回は、美男の貴公子として名高い在原業平の一首を取り上げる。(全5話中第2話)
時間:14:28
収録日:2018/04/02
追加日:2018/06/18
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≪全文≫

●高貴な貴公子、業平の代表歌が「この一首なのか」という疑問


 今回の講義では、百首全部の歌を読みたいところですが、とてもその時間がありません。大学の授業では一首につき最低でも90~100分かけたりします。ここではさすがにそれではゆっくり過ぎますので、数人の歌人を取り上げて、その解釈の問題点について考えていきたいと思います。

 まず登場してもらうのは、在原業平という歌人です。もちろんご存じでしょう。『伊勢物語』の主人公になぞらえられた人で、『伊勢物語』には業平とは書かれず、「昔男(むかしをとこ)」とされています。が、業平の多くの歌を、その「昔男」も同じく詠んでいるので、業平がモデルであるのは明らかです。

 業平は、825年に生まれて880年に亡くなる9世紀の人です。お父さんは、阿保(あぼ)親王。おじいさん、つまり阿保親王の父は平城天皇。お母さんは桓武天皇の皇女である伊都(いと)内親王です。血筋から言えば完全に理想的なる天皇家の血筋を濃く引いていますが、「在原」という名字をもって臣下に列しています。

 さて、大変有名な在原業平の歌として定家が選んだ一首は、この歌です(落語のネタにもなっていますが、それは少しおいておきましょう)。

 ちはやぶる神代も聞かず竜田川韓紅 (からくれなゐ)に水くくるとは
 (神代にも聞いたことがない。竜田川で韓紅色に水をくくり染めにするとは)

 これに関して、「あの有名な業平の一首が、この歌だろうか」という疑問は、大変多くの人が寄せています。しかし、よくよく考えると、業平の歌としてこれを選んだ定家の見識は、なかなかやはり深いものがあるのではないかと思わせます。


●「くくるとは」で描き出される、鮮やかな水面


 この歌は、どんな時に詠まれたのでしょうか。「神代にも聞いたことがない」からは大げさな感じが伝わりますし、「くくる(くくり染めにする)」は、「纐纈 (こうけつ)染め」のこと。布の一部を糸でくくって染めますから、丸い模様がぽこぽこできる状態になります。

 つまり、竜田川の上に散る紅葉が、くくり染めのようにまだらをなしているわけです。ある所にぽかっと丸く赤い紅色の輪っかができ、こちらにもあちらにもできている状態を詠んだものです。

 実は、この部分には少し問題があり、藤原定家はそう解釈していないことがはっきりしています。定家は「くぐる(潜)」と読み、「韓紅に水くぐるとは」で解釈しています。今は一般に「くくるとは」と読みますから、定家の解釈は間違っているのですが、そう思い込んで解釈したことは事実ですから、それをわれわれは知っておく必要があります。

 では、「くくるとは」と「くぐるとは」では、どう違うか。これは、絵がまったく違ってきます。「くぐるとは」では、水が下をくぐっているので、表面は一面に真っ赤な紅葉が散り敷いて、水は見えない状態です。それに対して、「くくり染め」の方では、所々ダンダラに丸い紅の模様ができていて、後は清らかな水面です。

 このように、明らかに違う絵の見える解釈を定家がしていたことを知っておいてください。その上で、「くくる」「くぐる」のいずれにしても、非常に大げさなたとえをしているのです。なぜ、そのようなたとえを用いているのかということに、少し疑問を持っていただきたいのです。

 

●神を導き出す枕詞を「聞かず」で否定した大胆さ


 次に、「ちはやぶる神代」の「ちはやぶる」は枕詞です。枕詞は、それ自体は意味がないのですが、次に来る言葉を引き出すための、引き出しの取っ手のような役割をします。「引き出しの取っ手」ではピンとこない方のために、あえてもっと分かりやすい比喩を使うと、ボクシングやK1、野球やサッカーなどで選手が登場してくるときに、場内を盛り上げるために鳴らす音楽です。

 昔のたとえになるので、ご存じでない方には恐縮ですが、元プロ野球選手の清原和博選手なら「とんぼ」(長渕剛)が打席に入るときのテーマソングでした。こうした音楽がかかると、次にヒーローが登場してくるという期待感が、その場を満たします。観客は、「さあ、来るぞ、来るぞ」と思います。あくまで「たとえ」ではありますが、枕詞はそれに近いものであったと考えると分かりやすいのではないかと、私は考えています。

 「ちはやぶる」という言葉があると、次に「神様」や神様に関わる言葉が来るのです。神様は当然たたえるべき存在ですから、その存在を持ち上げ、登場への期待感を高める役割を「ちはやぶる」が行い、それから「神代」が出てきます。

 ですから、この歌ではいきなり「神代」という非常に高いものが大々的に登場したかと思うと、次に「(神代も)聞かず」となるのです。「神代にも聞いたことがない」と言うわけです。せっかく神代を出してきたのに、聞...
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