●百人一首に選ばれた皇嘉門院別当の歌は奇跡的なまでに技巧的な歌
それでは次に皇嘉門院別当の歌を取り上げてみたいと思います。
皇嘉門院別当と聞いて、「ああ、あの人ね」と分かったら、かなり和歌に通じている人ではないかと思います。これまで取り上げた在原業平や和泉式部に比べれば、断然知名度は劣ります。要するにほとんど無名に近い歌人といってもいいのではないかと思います。もちろん当時はそれなりに名は通っていましたけれども、生没年も分かりません。当時の権力者・藤原忠通の娘であり、崇徳天皇の皇后になった人が皇嘉門院聖子です。聖子は「せいし」あるいは「しょうし」と呼んだのでしょうけれども、その別当です。別当というのは皇嘉門院という人の女房(宮中に仕える女官)であった人のことです。その歌はこちらになります。
難波江の葦のかりねの一夜ゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき
「芦の茂る難波の入り江でたった一晩かりそめの枕を交わしただけで、命をかけて恋い慕い続けなければならないのでしょうか」という歌です。前回、和泉式部の歌を『百人一首』の中でも最も情熱的な歌と言いましたけれども、私は今回の歌は、『百人一首』の中でも最もうまい歌の一つに押したい歌です。大変うまい。もっと強調するなら、奇跡的なまでに技巧的な歌だと思います。一体どういうことか、その説明をしていきたいと思います。
●「逢ふ恋」を詠む難しさ
例によってまた『百人一首』には詞書はありませんから、この歌が載っている『千載和歌集』に戻ります。7番目の勅撰和歌集です。その勅撰和歌集である『千載和歌集』の中では、こう詞書が付いています。
摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿に逢ふ恋といへる心をよめる 皇嘉門院別当
摂政右大臣は九条兼実という人です。この皇嘉門院のお父さんであった忠通の息子なので、皇嘉門院とは兄妹です。九条兼実は和歌にも大変通じていましたし、また和歌のパトロンとしても大活躍した人です。この人が右大臣であった時に歌合せを催しました。
歌合せはご存じでしょうか。簡単に説明すると、歌と歌を戦い合わせる、歌でやる相撲のようなもので、遊戯的な文芸です。歌合せには必ず題があります。これは「旅宿に逢ふ恋」という題で詠んだ歌なのです。「旅宿に逢ふ恋」とは、旅の宿で出会った、少し運命的、あるいは行きずりともいえる、その恋を詠むのです。
実は非常に難しい題で、まず「逢ふ恋」ですが、和歌の世界の中で恋は基本的に片思いです。遂げられない恋なのです。だから逢わない恋、逢えない恋の方が圧倒的に多いのです。逢う恋とは当然、「デートした」、「一夜をともにできた」、「大変うれしい」ということになりそうですから、うれしいということは詠みません。詠んではいけないのです、和歌の世界では。「では、デートできてうれしいということは表せないのか」というと、表せなくはありません。どうやって表すか。それは「デートした後、別れがつらかった」と詠むのです。それを「後朝(きぬぎぬ)の別れ」といいます。
ですから、後朝の別れがいかにつらかったかと詠むことによって、「あなたと逢えてうれしかった」という気持ちをそこに込めます。これが和歌なのです。直接に「うれしかった、良かった」と詠んでは駄目なのです。ですから「逢ふ恋」は、そこを一ひねりしないといけないということです。
●「旅宿の遇ふ恋」と皇嘉門院別当の着想
そこに今度は「旅宿」を加えます。「旅宿」というのは、もちろん恋と合わせることはできるのですが、その場合は「旅をしていて自分の奥さん、あるいは恋人を都に置いてきた。その旅の宿から都にいる奥さんや恋人を思って悲しむ、恋い慕う」などと詠むのが旅の恋なのです。
ですから、「旅宿で逢う恋」という題はなかなか難しいのです。そこで、皇嘉門院別当はどうしようかと悩んだ挙句、こう思い付いたのです。「そうか、旅の宿で行きずりの恋をした。そのせいですごく悩むことになった。苦しい思いをすることになった」。それだけ素晴らしい人だったということなのですが、そう詠もうと思い付いたのです。
●次々と言葉と言葉がつながってできた歌
今度はその題をどう詠むかが問題となります。例えば、次は全く私の作ではありますが、あえて駄作を作ってみました。
ただ一夜旅の宿りに逢ひにしを行末ながく恋ひわたるかな
「たった一晩、旅の宿で逢っただけで、こんなに将来長く、こんなに恋うことになろうとは、つらいな」というような歌を作ってみました。これではいかにもひどい。説明的です。そのまま説明しただけという形になっていますので、これではいけません。やはり和歌らしくなければいけない。それをどうしたらいいか。
都から出ることが旅ですから、どこか...