●「正直・慈悲・決断」は政治的な立場を超える
『神皇正統記』の歴史観・世界観には、揺るぎない筋が通っています。それは、三つの重要な要素に支えられながら歴史を見ようとしているところです。一つは正直、一つは慈悲、一つは決断という要素です。
北畠親房は、政治的な立場がどうであれ、歴史はこの「正直・慈悲・決断」の三つの要素に依拠することによってきちんと見なくてはならないし、責任を持たなければならないことを、筋道立てて書こうとしました。
南朝方の最も重要なリーダーでありながら、南朝方がかくのごとき悲運と不幸に遭っている原因が自分たちの中にもないだろうかと、真摯に反省している書物でもあります。
また、鎌倉幕府がいったん滅びたにもかかわらず、足利幕府として再建されたのは、武家方には、政治的な支持を受けるだけの徳望や支援を受けるだけの根拠があったのではないかと考えています。こういう点についても、真面目に反省しようとした書物なのです。
●北条泰時への評価の公正さ
こうした問いかけは、おのずから『神皇正統記』のあちらこちらに顔を出しています。中でも私にとって印象的なのは、他ならぬ後醍醐天皇が倒した鎌倉幕府の第三代目の執権、北条泰時に対する評価の公正さです。
北条泰時は、前回ご紹介した『吾妻鏡』で触れた北条義時の子どもです。政所の執権、すなわち鎌倉幕府政治の事実上の最高責任者として、幕政をつかさどった泰時についての親房の評価はすこぶる公平で、およそ次のように言っています。
北条泰時は朝廷の意思を重んじ、地頭(地方の武家の徴税人、支配者)の欲しいままな暴虐や欲しいままなまつりごとを禁止したために、北条の名、世代においては兵乱も起きず、そして天下も安定した。
父親の義時はさしたる才能もなかったけれども、義時が死んだあと、子どもの泰時は善政をしき、法や御成敗式目(貞永式目)を制定して、自分も他人もともに戒めた。すなわち法の支配を徹底した、と言うのです。
ところが北条の政権は、このような泰時をもってしても、ついには滅びざるを得なかった。これはやはり「天命」というものに他ならないと、彼は歴史観を語ります。
しかし、北条の政権すなわち義時の得宗家が7代も続いたのは、泰時の「余徳」であり、彼のさまざまな権威や努力によるものであるから、幕府が滅びたから...