●掛詞は和歌のレトリックの中でも代表的、かつ最も基本的なもの
古典和歌における掛詞についてお話しいたします。
掛詞というのは、日本語にとても数の多い同音異義語を利用して、いわば言葉のしゃれのようにして使うレトリックです。今「しゃれ」と申しましたが、なぜそういう言葉のしゃれのようなもの、あるいはだじゃれのようなものが使われるのか、長い間、私自身はよく分かりませんでした。それについて考えたことを、今日はお話ししたいと思います。
掛詞についてはたくさんの例があるのですが、その中でも大変に有名な百人一首の歌を例にお話しします。掛詞は、和歌のレトリックの中でも代表的なもの、そして最も基本的なもの、といってかまわないと思います。それは一体どういうことでしょうか。そして、なぜそれほど使われるのでしょうか。
●掛詞とは2つの文脈をのり付けしているような状態
最初にこの歌を取り上げてみたいと思います。喜撰法師の歌です。
「我が庵は
都のたつみ しかぞすむ
世をうぢ山と 人はいふなり」
これは、「私の庵は都の東南にあって、このように安らかに過ごしている。しかし、都の人たちは私が世を厭(いと)って宇治山にいるんだとうわさしているようです」という歌です。この中で「世をうぢ山」というところに掛詞があります。「うぢ山」という地名に宇治の山、その「う」のところに「憂し」が掛けられているのです。
掛詞は、ちょうど2本テープがあってそれをのり付けしているような状態です。そののり付けしてある部分が掛詞なのです。これを引きはがして2つのテープ(この場合、文脈とお考えいただければ分かりやすいと思うのですが)、それぞれその2つの文脈に分解して考えればいいわけです。上の歌の場合でいえば、「世の中を憂しと思う」という文脈と「宇治山で過ごしている」という地名を表す文脈、その2つがあるということになります。
●自分の気持ちの問題と地名を掛けている喜撰法師の歌
この場合、喜撰法師は強がりを言っていると考えればいいでしょうか。「私は世の中を捨てて、宇治山で過ごしている」ということですが、―宇治は今ももちろんあります。近くに宇治川が流れており、平等院鳳凰堂のあるところですが、昔は隠遁する場所というようなイメージがありました。そういう場所で安らかに暮らしているのに、「あいつは世の中が本当に嫌になって、あんな辺ぴな所に暮らしているんだ」などと皆さん思っているかもしれない。しかし私としては本当に気楽に、人間関係の煩わしさなどにとらわれることなく、ゆうゆうと暮らしている。ということで、ちょっと強がりっぽく言っているのではないか、と考えられます。世間の人と自分(私)を対照しているといえばいいでしょうか。
その時の要になっているものが、掛詞なのです。世の中が嫌になるという自分の気持ちの問題、自分のありさまの問題と、地名の宇治山、この2つが掛けられているということに少し注意をしておいてください。
●多重な掛詞を持つ小野小町の歌
次を見てみましょう。小野小町の有名な歌です。
「花の色は
うつりにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせしまに」
「花の色は色あせてしまったなぁ、むなしいことに。私自身がぼんやりともの思いにふけりながら過ごしていた間に。そして長雨が降っていた間に」。さらに、初句に返って「花の色が色あせてしまったな」と続くわけです。
この場合、花は普通、桜のことですが、実際に何の花かよく分かりません。ただ、『古今集』の春の部に入っていますので、季節は春だろうと思います。その春のもの憂い時間というものを頭に入れればいいでしょうか。そして、長雨が降っている。そんな中で、ぼんやりと花を見つめながら過ごしていた。そうしたら、いつの間にか花が色あせてしまった、散ってしまった、ということを言っているわけです。
●単なる言葉のしゃれではなく、わが身の在り方・モノの在り方を重ねる
この場合の掛詞が大変凝りに凝っているのです。
「我が身世にふる ながめ」のところに掛詞があります。「ふる」が、時がたつという意味の「経る」と雨が「降る」、この2つの掛詞になっている。これだけでも普通、掛詞なのですが、さらにもう1つ掛詞が連続して使われているのです。「眺める」です。これは単に見るだけではなくて、もの思いにふけりながらぼんやりと眺めるということですが、それと「長雨」です。「ながめ」と「ながあめ」は違うじゃないかと思われるかもしれませんが、「あ」の音が省略されていると考えれば、「ながめ」で長雨となるわけですね。
この2つが掛けられているのです。ここも作者の心情、作者の在り方を表す言葉と、世...